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第2章 遺伝子病理学研究所
この季節だと午後10時でもアムステルダムは明るい。白夜だ。とはいえ、深夜人は寝ているし企業は活動を停止している。
マリーはアンドレ・ニッカネンから得た情報を元に遺伝子病理学研究所に忍び込んだ。
この研究所にアンドレがミカ・オーステルベルクを連れて行ったと証言したからである。もっとも証言は自ら彼がしゃべったわけではなく、かなり強引な方法で聞き出したわけだったが。
アムステルダム中央駅を中心にアイ湾沿岸のウォーターフロント地域には科学技術センタービルに代表される近代建築が立ち並ぶ町が広がっている。
一方で網の目のように内陸へ広がる運河沿いにはレトロな狭小住宅がびっしりと建ち並んだ町もあった。
アムステルダムは過去と現在がごく普通に混在する街なのだ。
現代的なビルが建ち並ぶ区域からも狭小住宅が林立する場所からも少し離れた運河近くのかなり広い敷地内に古ぼけた4階建ての巨大な建物があった。
灰褐色の石造りで壁面には所々禍々しい彫像が掲げられている。例えばメデューサのような顔の彫像が。
ビルは運河沿いではなく一列奥に入った場所に建っていた。昼間この街に入って、マリーが聞き回ったところでは遺伝子病理学研究所の実態を知る者は誰もいなかった。
医学研究の拠点にしては古めかしいビルであり、そのためマリーにとって侵入は容易だった。
マリーは敷地の外れに小さなレンガ造りの小屋を見つけた。庭道具などをしまう倉庫に見えたが、実際はビル全体へ電力を供給するための電気室であった。そして電気だけでなく下水管への接続口がこの小屋の下に来ており、それはコンクリート製のヒューム管ではなく、直径1.5メートルほどの土管だったのだ。
マリーは小屋のコンクリート床にあるマンホールの蓋を開けるとサーチライトを片手に鉄梯子を下っていった。
闇の中をちょろちょろと水の流れる音がする。マリーはサーチライトで鉄梯子の底を照らしてみた。思ったほどの匂いはないものの、気持ちのいい場所ではない。
どうやらこの縦管は街の下水道への接続部分へ降りるための物らしい。土管は無理矢理下水道の塩ビ管へ繋がっていた。
土管の底へ降り立ったマリーは今度は横管を遺伝子病理学研究所ビルの方へ歩き出した。横管は縦管と同じ大きさでマリーは背をかがめて中腰で進むしかない。
「いったいいつの建物なんだろう。相当に古いな」
そう独り言を言うマリー。水の流れる音以外は何も聞こえてこなかった。実際水は土管の底を僅かに流れているだけだ。マリーはその流れを避けて、しかも背を屈めて前進しているのだった。
1分と歩かぬうちにマリーは再び縦の土管との継ぎ目に行き当たった。いつまでも土管の中を中腰で歩いてはいられない。
マリーは素早く鉄梯子を登るとゆっくりとマンホールの蓋を開けた。
「ああ、もう重いわねえ」
外は間違いなく研究所の地下室だ。広い。機械室と呼べばいいのか、大きな配電盤が幾つも並び室内は電線やガス管、そして上下水道の管が縦横に走っている大空間だった。
マリーはライトを注意深く照らすと辺りを観察する。と言って、ここに人のいる気配もまた過去人が来た気配も全くしなかった。
マリーはすぐに非常階段を見つけると上階へ上がって行く。
1階はまるで病院のような造りで、大きな受付カウンターがあり、後ろに小さな診察室のような部屋が幾つも並んでいた。
そのうちのひとつにマリーは入り込むとデスク上のパソコンの電源を入れた。OSが起動を始める。
パソコンを点けるリスクはあった。だが、こう広くては何か手掛かりでも無い限り探しようがない。
ディスプレイはTOP画面を表示した。
「IDとパスワードね・・・」
マリーはデスクの中を探ってみたが、たいした物は入っていない。文房具類がいくつかあるだけだった。
デスクの前の壁に数字だけのカレンダーが掛けてある。5月。マリーはカレンダーをめくると最終ページ、今年の12月のページの下段に8桁の数字とアルファベットの列を見つけた。
「ふ、パスワード、ゲット。あとはIDか・・・」
マリーは部屋の奥、スチールロッカーを開けた。白衣が2枚掛かっている。その1枚に身分証(IDカード)が付けたままになっていた。
「精神科医 アナベル・バウテンハウス 女医か・・・」
IDとパスワードを入れると、システムは疑うこともなく動き出した。検索窓にミカの名前を入れて検索する。いくつかの項目が表示される。
「あった・・・。ミカ・オーステルベルク。ヒーラー・・・、やっぱり」
それはミカのカルテだった。特殊能力。読心術、感応力、精神施術等の記載があった。そして最下段に死亡の文字が。
マリーはミカのカルテにあった3−B6という数字が部屋番号であろうと見当を付けてパソコンの電源を切った。
部屋を出るが、辺りは静かだ。非常ベルが鳴り出すこともなく、警備員が駆けつけて来ることもなかった。マリーは階段を上がると3階へ向かった。
「どうすんのよ、セバスチャン。もう3日も事務所でうだうだしてて・・・」
レベッカは本気で苛立っていた。
「しかし」
「あの子はどこへ行っちゃったの? それにあの大男も」
セバスチャンは歯切れが悪い。自分がヴァンパイア・ハンターだと自覚したものの、だから何が出来るというのか。
結局マリーは喫緊のことは何も教えてくれなかった。彼女が今何を追っているのか、これから何をしようとしているのか、ということだ。
「今更ハーグ市立医科大を探ってもだめだな・・・。他に何かないのか・・・」
セバスチャンもまた苛立っていたのだ。
「ねえ、セバスチャン。やっぱり私たちがやるべきことは消えた子供たちのことなんじゃないのかな。ヴァンパイアもいいけど、仕事は仕事だし」
レベッカが更に言う。
「子供会を当たっていこうよ」
「子供会?」
「そう。だって東方魔法協会ではたいしたことは分からなかったんでしょ? 現場は各地にある子供会よ。先ずは、消えた子供たちの名前など個人情報を集めて、子供会に所属していなかったか調べるのよ。そうすれば、ミカ・オーステルベルクとドーリー・アッケルマンとの類似性が見えてくるんじゃないの?」
「それはそうだが・・・」
セバスチャンが何か言おうとした時スマホが鳴った。
「マリーさんからメールだ」
それを聞いてレベッカもセバスチャンのスマホを覗き込んだ。
「これって・・・、カルテ?」
「ミカ・オーステルベルクの医療カルテだ。遺伝子病理学研究所!」
「それってあの大男が言ってた・・・」
「ああ。マリーさん、やっぱりここへ行ったんだ」
「待ってセバスチャン。これパソコンの画面じゃないの?」
「本当だ。まさか、今ここに?」
「電話番号くらい教えてくれればいいのにね。ここへメールしてみたら?」
レベッカが言うのでセバスチャンはメールを打った。すぐに返信が来たが、それは素っ気ない文面だった。
「イマテガハナセナイ。マタニシテ」
それを見たレベッカが大きな声を上げた。
「何なのよ、これ。失礼しちゃうわ」
そんなレベッカをなだめてセバスチャンはミカのカルテをプリントアウトするとじっくりと読み出したのである。遺伝子病理学研究所の医師アナベル・バウテンハウスの書いたミカのカルテを。
実際、マリーは全く手が放せない状態だった。3階の給湯室と思しき部屋で息を潜めていたのだ。
マリーは3階に上がったところで突然銃撃された。弾は辛うじてマリーの顔面を掠めて壁にめり込んだ。いきなり実弾を撃ってくる警備員など聞いたことがない。やはりここはそういうところだと言うことだ。
マリーはセバスチャンにメールを返信すると給湯室を飛び出した。そのまま廊下を疾走すると大空間に出る。ここはちょうど大きなビルの真ん中、ホールのようだった。1階はきっと正面玄関なのだろう。
暗くなりかけていたビルには電灯が灯り物騒な活気に満ちていた。数名の武装警備兵のような連中がマリーを躍起になって探しているのだ。
マリーは階段を上に向かう。屋上から外へ出ようと思わせる腹づもりだった。最上階であるはずの4階はまだ明かりが点いていない。
夜陰に乗じてマリーは廊下を疾走する。走りながら廊下の隅に置いてあった消火器を蹴飛ばした。
ガラン、ガラン、ガラン。
消火器は派手な音をさせて廊下を転がっていった。これに警備たちが反応する。
「上だ!」
警備主任と思しき女が3階から階段を指し示す。銃を構えた数名の警備たちがマリーの上がった階段に殺到した。
マリーは闇の中を見透かすとビル反対側の階段を一気に飛んだ。その身体はふわりと闇の中に躍り出ると宙を滑空するように3階に降り立っていた。そしてまた疾走する。
「3−B6。ここだ」
マリーはその部屋のドアを開けると中へ滑り込んだ。このままここを逃げ出すつもりなど全くなかった。折角見つけた手掛かりだ、あくまで調べるつもりだったのだ。
部屋はまるで実験室のようだった。デスクの上には様々な実験器具が並べられていた。何かの解析装置のような大型の機械もある。大きな顕微鏡が置かれていた。ただ、しばらく使われていないようで、デスクや様々な器具の上にはうっすらと埃が堆積していた。
「遺伝子解析か・・・」
マリーが呟く。キャビネットの中を探るとミカ・オーステルベルクのファイルがあった。
「ミカは何をされた・・・」
マリーはノートをパラパラとめくっていった。そのファイルはドイツ語で書かれた実験記録だった。
マリーはスマホを取り出すと、ビデオ撮影モードにする。サーチライトを口にくわえると光を当てながら片手でノートをめくっていく。最終ページまでめくり終わるとライトを消して、ファイルを戻した。
部屋を出たマリーは地下室を目指した。後は脱出あるのみだ。ビルの東端にある階段をまさに飛ぶように下へ降りていった。
1階に降り立つとマリーは中央階段のある方へ走った。今降りてきた階段は地下に通じていない。地下へ降りるには上がってきた非常階段へ戻るしかなかった。
エレベーターホールに出たマリーはその一番奥にある貨物エレベーターに目を止めた。
「よし、あれだ」
▽ボタンを押す。1階は全館明かりが点いていた。ここで見つかれば逃げ場がない。いらいらしながら地階から上がってくるエレベーターを待つ。
貨物用エレベーターは極端にスピードが遅かった。エレベーターの籠はゆっくりゆっくり上がってくる。
「何者だあ!」
警備の男がマリーに叫んだ。他の警備がすぐに駆けつける、銃を持って。
一斉射撃が始まったその時、エレベーターの扉が開いた。マリーは中へ飛び込むと閉ボタンを連打する。
逃すものかと警備員たちがエレベーターに殺到するが、間一髪エレベーターは扉を閉じて動き出した。
マリーはエレベーターの天井へ手を差し上げると意識を集中した。天井のプラスチック板が跳ね上がる。そこへマリーはジャンプした。天井にぶら下がると渾身の力で自らをエレベーターの屋根へ持ち上げた。
エレベーターのワイヤーが動いている。それをうまく避けながら端へ寄ると間一髪マリーは壁面の空洞へ飛びついた。
エレベーターはゆっくりと下がって行った。このスピードでは地階に着いた時奴等は扉の前で待ち構えているだろう。
マリーが飛び込んだ空洞は中2階のような場所。おそらく空調用のダクトなのだろう。四角い通路をマリーは四つん這いで進んだ。
しばらく進むと換気口が開いていた。下はどこかの部屋だった。暗い部屋、殺風景な。
マリーはダクトに嵌め込まれた網を外すと床へ飛び降りた。カンっと靴音が響いた。
ところがそれが合図ででもあったかのように照明が点くと部屋が動き出したのである。四方の壁がバリバリと剥がれ落ちていく。
「しまった。罠か」
すぐに部屋の真の姿が露わになった。ゆっくりと下へ下がっていく四角い鉄格子の中にマリーはいた。
「女、一体何者だ?」
声が上の方から響いてきた。見上げると黒いレザースーツに身を固めた女がさっきの警備員たちを従えて立っていた。警備主任のビヨルクである。
「ふん」
辺りを観察するマリー。
「鳥籠ってわけ?」
マリーがビヨルクに言った。
「違うわ」
女はケタケタと品のない笑い声を上げた。
四方を鉄格子で囲った床だけの部屋は上から吊られてゆらゆら宙に浮いている。
「じゃあ、何?」
「ねずみ取り」
ビヨルクが答えた。そしてまたしても笑った。
「さあ、答えなさい。あなたは何者なの?」
急に真顔に戻ると警備主任はマリーに詰問した。
「旅の者? 通りすがりとか・・・」
マリーが茶化す。
「あなた自分がどういう状況なのか分かってないようね」
ビヨルクは中二階の壁面に沿って設置された細い通路の上にいた。右手を挙げて合図すると籠は再び下へ降り始めた。
バランスを崩したマリーが床に手を着きながら下を覗くとそこには黒い水面が見える。
籠はその水面ギリギリに停止した。
「分かった? だからねずみ取り」
チャポチャポと床に入り込んでくる黒い水は嫌な臭気を漂わせている。
「そのままあなたは廃液の中に沈められるってわけ」
警備主任のビヨルクが勝ち誇ったように言った。
「なんでこんな仕掛けが? やっぱりまともな研究所じゃないようね」
マリーが落ち着いて言葉を返す。その冷静さが警備主任を苛立たせたようだ。ビヨルクはいきなり警備員の銃を奪うとマリーに向けて発砲した。
キューン!
弾丸はマリーの肩で跳ねて籠の鉄格子に当たった。これに警備主任のビヨルクが反応する。
「おまえ、何をした?」
ビヨルクの顔色が変わった。弾は間違いなくマリーの肩を貫いたはずだった。それが弾かれたのだ。
ビヨルクは続けざまに3発、更に銃弾を放った。
キューン、キューン、キューン!
だが弾丸はいずれもマリーの身体を貫くことはなく弾かれて今度は天井に当たった。
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