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「いったいお前は誰なんだ?」
ビヨルクが吠える。だがマリーは何も答えない。
「沈めろ!」
ビヨルクが命令すると籠はゆっくり動き始めた。床に廃液が入り込む寸前、マリーは天井の換気口だった所に跳び上がった。マリーが飛び上がると換気口を塞いでいた扉が自然に撥ね飛ぶ。そこを脱けてマリーはねずみ取りの天井に立ち上がっていた。
「撃て、撃て。撃ち殺せ。」
マリーは籠の上から地階の床に飛び降り、ふわりと着地する。
警備員たちの撃つ弾丸が雨あられと降り注いだがどれもマリーを倒すことも傷ひとつ付けることも出来なかった。
マリーは出口を見つけて走った。だが、ドアの一歩手前まで来たところで、強烈な力に後ろへ吹き飛ばされてしまった。
起き上がろうとするマリーに見えない打撃が襲いかかった。顔面に、腹に、足に、そしてまた顔面に、見えないが、それは重い拳のパンチだった。
打ちのめされたマリーが目の前に見たのはレザースーツに身を固めた警備主任の女、ビヨルクだ。
「ただの人間じゃないわね、何者?」
ビヨルクはそう言うとマリーの身体を軽々と持ち上げて放り投げた。床に叩きつけられるマリー。激しい衝撃に息が詰まる。
反撃しなくちゃ、そう思うものの力が出ない。さっきのサイコキネッシスがもう使えない。
「サイボーグか・・・。」
マリーが呟く。拙いな・・・そう思った。
ビヨルクは床に突っ伏すマリーの襟を掴むと、らくらくと引きずってドア横の壁面に叩きつけた。
マリーは壁に背中から激突しドサリと床に落ちる。身体中の骨が折れたような痛み。
「さ、死にたくなければ正体を明かしなさい」
ビヨルクは半ば意識を失いかけていたマリーの前に立っている。更にマリーの側に屈み込むと首に腕を回した。
マリーの首に強い力が加えられた。息が出来ない。たちまちマリーの顔は真っ赤になると、今度は本当に意識が薄らいでいった。
「言わないならそれもいい。このまま絞め殺してやる」
マリーの首に掛かった力が更に強くなる。窒息する前に頸椎が折れるかも知れない。
するとマリーの隣のドアが音もなく開いた。半開きになったドアから白い影が現れるとビヨルクに体当たりしたのだ。不意を突かれたビヨルクは後方にひっくり返った。
白い影はドアに戻るとマリーの両手を持って中へ引きずって行った。バタンとドアを閉めると内鍵を掛ける。
スチール製の扉はいくら叩こうがびくともしなかった。ビヨルクは警備員に鍵を取りに行かせようとしたが、こちら側に鍵穴はない。
それで警備たちを連れて別のドアから二人を追うしかなかった。もうひとつのドアはこの地下1階の反対側だ。
「ちきしょう!」
地団駄踏むビヨルクだった。
「マリー、大丈夫?」
白い影に抱きかかえられながらマリーはよろよろと歩を進めていた。
「あなたは・・・」
マリーの目に涙が滲むのは激しく殴られたせいではなかった。懐かしい顔に涙が・・・。
「泣き虫のマリーに戻っちゃったわね」
白い女は気絶したマリーを負ぶって闇の中を歩いた。やがて次のドアを開けるとビルとビルの間のゴミ置き場の前に出る。向かいのアパートメントの向こうは運河だ。
「ベル、お願い」
二人がかりで抱きかかえられてマリーは車に乗り込んだ。まだ薄明るさの残る運河の町をゆっくりと車は走りだした。
遺伝子病理学研究所は斜面に建設されている。正面になっている運河側と反対の地階がこちら側では1階になっていた。
ベルの運転してきた車は前に立っているアパートメントと紡績会社のビルとの間の路地に町に溶け込むように止まっていたのだ。
「その子、大丈夫なんですか?」
運転席からベルが白い女に尋ねた。
「一応病院へ行こうか」
「アムステルダム中央総合病院の夜間救急に向かいます」
「マリーは泣き虫なくせに、大胆だから」
白い女が優しくマリーの髪の毛を撫でながら呟いた。
アンドレ・ニッカネンはまだハーグにいた。市の中心地は世界の金融企業が集まる超近代的な街だ。だが、ちょっと郊外へ出れば酪農が盛んな牧歌的な町でもある。
アンドレは、ハーグの郊外、牧歌的な自然の中に建つ東方魔法協会の事務所に来ていた。
一応名前と顔の通っているアンドレは顔パスで受付を通過、各支部との連絡を取っている2階へ行くと見せかけて、奥のエレベーターで地階へ降りた。
この木造の民家のような建物に地階があることは限られた者しか知らない。ここに理事長室があることも同じだ。
もちろんブカレストの本部には豪華な理事長室があった。だが、ルーマニアにいては仕事にならない。マジェスティの急な呼び出しに応えるためにもアムステルダムかハーグに理事長室が必要だったのだ。そこでこの地下室を作らせたのである。
アンドレはエレベーターを降りると薄暗い廊下を真っ直ぐ歩いた。そして右手に出現する理事長室をノックする。当然反応はない。この部屋の主の行動は把握済みだった。
アンドレはポケットから合い鍵を取り出すとドアを開けた。殺風景な部屋だった。ライティングデスクとパソコン、簡易的な応接セットの他、装飾らしい装飾はダークホワイトの壁に掛かる1枚の絵だけである。
ムンクの抽象画だが、美術界では贋作の烙印を押された絵だった。数年前のことである。それを理事長が買った。
なんでもこの絵はムンク自身の手になる真作で、実際ムンク自身に確認済みと言うことだ。
マリーに押されたアンドレはずっとミカのことを考えていた。ミカは幼くして人の生き死にに直接係わった。結果世間から叩かれ、辛い経験をしている。自分は彼女に十分なことをしてあげられたのだろうか。
ミカはもう天へ召されてしまった。が、子供会にはまだたくさんの子供たちがいる。ミカのためにも二度とあんなことが起こってはならないのだ。
アンドレはその思いをマジェスティに、アレクシス皇帝に伝えたかった。だが、直接面会を求めるなどあり得ない。となればメールを入れるしかない。
だが、マジェスティのメールアドレスを知る者は滅多にいない。協会では定時報告をメール提出している理事長以外にいないはずだった。だからアンドレは今ここにいた。
アンドレは理事長席に座るとパソコンの電源を入れた。事前に入手していたIDを入力する。パスワードは聞いた通り引き出しの奥にメモがあった。
次ぎにアンドレはメールを開くとマジェスティのアドレスを探す。先週グスタフ理事長がマジェスティ宛てに送ったメールが残っていた。
そこでアンドレは今まで考えていたことをメールにする。考えてきたことを文字にするが、考え直して消したり、書き足したり、何度も修正を繰り返してようやくメールを完成させた。
もう随分長く理事長席にいた。アンドレは決心するとメールを送信した。だが、ひとつ間違いを犯していた。送った先はマジェスティ個人ではなく幹部全員へのメーリングリストだったのである。もちろんマジェスティにも届くのは間違いないのだが。
アンドレは安堵の表情を浮かべる。ところがこのタイミングで突然理事長室のドアが開いた。
「おまえは、誰だ!」
黒いポロシャツに茶のチノパンツというラフなスタイルで現れたのはこの部屋の主、東方魔法教会理事長のグスタフ・バレンチノだった。
「貴様、ニッカネンか」
顔を上げたアンドレを見てグスタフは怒声を挙げた。
「こんなところで何をしている!」
グスタフはそのスタイルの通りゴルフ場から来たのだった。今日の午後はハーグ市の役人とゴルフだった。だがマジェスティからの夜食の招集にハーフで切り上げたのである。アンドレにとっては計算外だった。
詰め寄るグスタフにアンドレは突進していった。長い牙を煌めかせて。
「貴様!」
グスタフは片手を広げると向かってくるアンドレにその手を押し出した。理事長の首に手が掛かる寸前でアンドレの身体は押し戻されていた。
その力を撥ね除けて無言で理事長に掴みかかろうとするアンドレ。その力は強大だった。体格に勝るアンドレがジリジリとこの力比べを有利にしていく。
我が身危うしと感じたグスタフ理事長は内ポケットから拳銃を引き抜く。
ガン!
銃弾はアンドレの額を貫いた。とたんに掛けられていた圧力がふっと消える。
「こいつ、こんなところへ。どういうつもりなんだ」
独り言を呟きながらデスクのパソコンを覗き込んでグスタフは青くなった。
「陛下に、こんなものを! 俺のメールアドレスから」
グスタフ理事長は電話を取るとシステムのシャットダウンを命じた。
「いいから、全てのパソコンをネットから外せ! 俺は出掛ける!」
言うなり、グスタフは部屋を飛び出して行った。
その頃アムステルダム中央総合病院の病室に3人の若い女性が揃っていた。運び込まれたマリーは今目を覚ましたところだ。
「マリー、大丈夫?」
マリーは黒い瞳をパチパチ動かすと白い女の顔をまじまじと見詰めた。そして大粒の涙を溢れさせた。自分を助けたのが懐かしいお姉さんだと知ってマリーはベッドから腕を伸ばして抱きついた。
「ラン!」
そして銀髪の女にしがみつく。マリーは声に出して泣き出してしまった。ランこと蘭青泉のジャケットはマリーの涙でぐしゃぐしゃだ。しかもベッドに倒れ込んだままだった。
「マリー、マリー、さあ、もう泣き止んで」
だが、それから5分ばかりの間マリーはランの胸で泣きじゃくった。
マリーはヨーロッパで孤独だった。たった一人で母テレジアの人脈を発掘し、ヴァンパイアたちの動きを見張っていたのだ。
マリーが泣き止んでベッドに座って話が出来るようになったのはそれから更に5分後だった。
「ラン、元気だったの?」
マリーが蘭に聞いた。
「私は元気よ。元気じゃないのはあなたの方。なんて無茶なことを・・・」
「うん。分かってる。奴等をちょっと甘く見過ぎたわ。ねえ、ランはどうしてパリに?」
言われて蘭がポケットからバッジを取り出した。それはインターポール職員であることを証明するいわゆる警察官バッジだった。
「インターポール?」
マリーが聞く。
蘭青泉は六本木事件の後、半年ほどでインターポールへ出向となったのである。警察庁官房副長官に出世した男の計らいだった。とかく奇異な目で見られがちの蘭を海外へ逃がした、そういうことだった。
そしてパリの本部勤務の傍らヨーロッパのヴァンパイアたちの動きを調べていたのである。
「こんにちは」
やっと人心地ついたマリーに傍らの女性が声を掛けた。
「あ、あなたは?」
「私はベル・ジークリスト」
「ほら、六本木の事件の被害者の一人安野美枝子さんの友人だった・・・」
蘭がマリーに言った。
「ああ、スイス留学時代の・・・」
「ミーコはほんとに残念だった」
ベルが目を伏せる。だけどすぐに目を上げて言った。
「だから今ランの調査を手伝ってます」
金髪のショートカットでヨーロピアンにしては背の低い女性はマリーとよく似ていた。マリーも金髪に髪を染め背は高い方じゃない。二人が並ぶとまるで双子の姉妹のようだった。
「で、マリーは何で遺伝子病理学研究所へ?」
蘭がようやく話を本題に戻した。
「いや、ランこそ、なんであそこに」
マリーは今までのことを蘭に語った。話を聞き終わった蘭はベルと頷き合うのだった。
「やっぱりそうだわ。マリーさん、しばらく前からヨーロッパ中で子供たちの誘拐・失踪事件が相次いでいるの」
ベルが言った。それを蘭が引き取る。
「インターポールでそれを知って調べ始めたわけ。とはいえ、インターポールがこんな調査に協力するはずもないけどね」
今度はベルがまた引き取った。
「だから私が協力してる。ミーコのこともあったし、奴等の陰謀を暴かなくちゃ」
「分かったの? 奴等の目的が?」
するとベルは目を伏せてしまった。おずおずと蘭が説明する。
「残念ながら・・・分からないことの方が多い。子供の失踪事件のどこまでが奴等の仕業で、何のためにやっているのか、今のところは何とも・・・」
「でも、遺伝子病理学研究所に何かあるとランも考えたのね?」
マリーは言うと、スマホの画面を見せた。
「これは!」
画面を覗き込んだ蘭とベルは同時に声を上げた。それはミカ・オーステルベルクの例のカルテだった。
「この子は?」
蘭が問う。
「さっき言った行方不明、いえ、すでに殺されてしまった少女のカルテ。この子エスパーだったみたい・・・」
「ヒーラー!?」
ベルが声を上げた。ベルの顔を見て蘭青泉が自分のスマホの画面をマリーに見せた。
そこには黒いマントを羽織った男の子が写っていた。TVのスタジオらしく何かの公開実験のようだ。
「これは?」
マリーが何やら禍々しい情景の写真を見ながら蘭に尋ねた。
「パリで昔話題になった悪魔少年」
「悪魔少年? 何それ?」
「この子、離れた場所にいる人を殺すことが出来た・・・」
「そんなこと・・・」
マリーは困惑した。するとこれはその能力の公開実験なのか?
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