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第1章 私立探偵
この季節にありがちな霧が立ちこめて、見晴るかすJ&Vビルも影だけが見え隠れしていた。運悪く小雨が降り出して男はトレンチコートの襟を立てると小走りに路地へと入り込んで行った。
「このアパートだ」
男は独りごちると古めかしい造りの階段を上り出す。3階まで上がると303号室のドアをノックした。到って静かに。
「誰?」
部屋から女の声がした。
「ああ、私、セバスチャン・ルートヴィッヒと申します」
ドアの外で男が名乗った。するとガチャリと内鍵を外す音がしてドアが開いた。
「私立探偵の? ルートヴィッヒさん?」
セバスチャンは驚いたような顔で頷いた。
「今日はわざわざありがとう」
言いながら如何にも真面目な小役人と言った趣の男が量産品のスーツ姿で現れた。
「どうも、初めまして。私立探偵のセバスチャン・ルートヴィッヒです」
居間に通されたセバスチャンは勧められるまま革張りの応接セットに腰を掛けた。
「ただいまお茶を」
ドアを開けた女が言うと奥へ引っ込む。
「いや、お構いなく」
女に声を掛けるとセバスチャンはアタッシュケースから書類を取り出した。テーブルに広げようと腰を滑らせたがごそごそとソファが音を立てた。合成皮革のようだ。
「これが契約書類です。費用の詳細はここに。では、お電話でお聞きしたご依頼の件、詳細をお願いします」
「分かりました」
小役人風の男は奥へ大声で呼びかけると女がティーセットを乗せた盆と共に戻って来た。
「お願いです。一刻も早くドーリーを探してください」
女が切羽詰まった顔でセバスチャンに詰め寄る。
「警察は?」
「もちろん話をしました。ハーグ警察署のミネルバ刑事部長です」
「ああ、こんな感じの女性のね?」
セバスチャンがウエストを広げるような身振りで言うと、
「そうです。こんな感じの刑事部長です」
男がそれに習った。
「箸にも棒にもかかりません。家出したんじゃないか、友達の家にいるのではないか、と真面目に取り合って貰えませんでした」
セバスチャンはお茶に手を伸ばすと、今度は女の顔を見ながら質問した。
「その、思い当たることは何か?」
「ドーリーは家出するような子じゃありません。私たち本当の親子のように暮らしてました。私たち心から彼女を愛してるんです。彼女だって、私たちを本当の両親と思ってくれてました」
「分かりました。それでは具体的なことをお尋ねします」
セバスチャンはこれ以上聞いても情報は得られないと判断し、事実確認の作業に入った。失踪した日時、服装、持ち物、所持金などなど、である。
『これで7件目か・・・。』
小雨から本降りの雨になった歩道を歩きながらセバスチャンは各事件に思いを馳せた。彼が請け負った事件だけで2件目になる。
ニュース情報を調べると公に事件化されているものだけで、5件あった。セバスチャンが受けた2案件は正式にはまだ事件化されていない。
『他にもあるかも知れない・・・。』
セバスチャンはまず学校へ向かうことにした。子供を知るにはまず学校だ。親よりも長い時間子供を見ている。まだ失踪して2日目だ。13歳の少女は本当に家出している可能性も無くはない。
セバスチャンはドーリーの通うハーグ第3ミドルスクールを訪ねた。
「最近のドーリーの様子はどうでしたか?」
セバスチャンは極めて穏やかに担任教師のミセス・ロイルに尋ねた。
「いえ、特に変わった様子は・・・。お友達と喧嘩したようなこともなかったですし・・・。いえ、イジメなんてそんなこと、決してありません」
ミセス・ロイルは私立探偵と聞いて自らの保身に必死だ。これでは何も聞き出せない。
「それでは、質問の内容を変えます。率直にお聞かせください。ドーリーのご両親は学校を訴えようとか、そういうことは考えていません。私はドーリーの捜索を依頼されただけです」
応接室の外には教頭の禿げ頭が心配そうにうろうろしていた。
「ドーリーって、どんな子でした?」
セバスチャンは先を急いだ。
「どんなって・・・」
言い淀むミセス・ロイル。
「率直におっしゃってください。私としてはご両親には申し訳ないんですが、少々変わった子じゃないかと考えています。となると、家出の線が濃いかな・・・と」
セバスチャンは巧みにミセス・ロイルに水を向ける。
「正直なことを申し上げれば・・・」
ミセス・ロイルは向けられた水を正面から被ってくれたようだ。
「ちょっと奇妙な子だったと思います」
「ほう。奇妙な子? それはどうして?」
「ええ。なんて言ったらいいのか・・・、あの、一度こういうことがあって・・・」
ミセス・ロイルが訥々と話したことを繋ぎ合わせるとこういうことだった。
学校のクリスマスパーティでクラスで歌を歌うことになった。自分としては賛美歌から曲を選びたかったが、ドーリーが反対したというのだ。
ドーリーはスケーターズワルツにオリジナルの歌詞を付けて歌ってはどうかと提案してきた。
クラスメイトたちは正直なんでも良かったようだが、そういう冒険的な試みは父兄も出席するこのパーティでは辞めさせたかったのだと。
結局その日は結論が出せず、次の日に決めることにした。翌日、どう説得したのかクラスの大半はドーリーの案に賛成していた。
ミセス・ロイルは校長にも相談したが、クリスマスなんだから賛美歌がいいだろうと助言をもらい、ドーリーの説得を試みた。
「私、今でも信じられないんですが、教室でふたり面と向かって話をしたんです。相手はまだ13歳の子供ですよ。説得は出来ると思ってました。私も色々と経験値もありますし、子供たちを指導するのが仕事ですからね」
そう言ってミセス・ロイルは額の汗をハンカチで拭った。
結局説得は失敗した。失敗したどころかミセス・ロイルはドーリーの案に賛成の意思を示したのである。確かにミセス・ロイルは彼女の案に賛成した。でも・・・。
「すぐ後で、何であんなことを言ったのか自分でも信じられなくて・・・。でも確かに私ドーリーの言うことに賛成したんです、その時は」
ここで再びミセス・ロイルは汗を拭いた。まだ4月だ。部屋の暖房が効きすぎている訳でもないのに。
「ドーリーにはそういう所があって、いつの間にか彼女の思い通りになっていることが何度かありました。私だけじゃなくて、生徒の中にもそう言ってる子がいましたよ」
これはどういうことなのか、セバスチャンに答えは出てこなかった。
ただ、もう1件の捜索依頼との類似性に気が付いたのはセバスチャンが探偵という職業だったからだろう。
学校を出るとセバスチャンは事務所へ戻ることにした。少し整理してみたいことがあったのだ。
「レベッカ。その後情報はあるかな?」
セバスチャンがS&R探偵事務所の共同経営者であり、有能な助手であるレベッカ・ボルダーに尋ねた。
「整理してあるわ。これを見てちょうだい」
古めかしい応接セットのローテーブルの上にレベッカが広げたのは古いタブロイド紙のコピーだった。
超能力少女の起こす奇跡、そうタイトルが踊っていた。記事に依れば、ハーグ郊外に住むミカ・オーステルベルク8歳は癌で苦しむ叔母の腹を擦ると肝細胞癌ステージ3が消えたというのだ。
記事には小さくCT画像写真が2枚並べて掲載してあり消えた癌細胞を解説していた。
「ヒーラーというわけか?」
「彼女は自分の叔母さんの他、ご近所の老人、病院で知り合った6歳の少女、郵便配達の男の癌を治したと書いてある」
「ううん。本当なのか? この新聞だぞ」
「悪名高いタブロイドよね。だから実際に彼女の叔母さんに会って確かめた」
「どうだった?」
「確かに彼女の肝臓癌は治ったそうよ」
「病院での治療が功を奏したのでは?」
「いえ、行ってた病院では匙を投げられて、覚悟を決めていたそう。それで、ミカにそろそろお別れなのだと話をした」
セバスチャンは買ってきたスタバの珈琲を啜りながらタブロイド紙に再び目を落とした。
「ここに出来た悪い腫瘍のせいで私は神様のところへ行くってね。右の腹に手を当てて言ったそうよ。」
8歳の少女ミカは静かに涙を流すと、叔母の腹に手を当てた。そして何かを一心に願いながら叔母の腹を擦ったそうだ。
「叔母は1ヶ月後、酷い痛みに襲われるのはゴメンだと思い直して大学病院を受診した。CTを撮ったら癌は跡形もなく消えていたというわけ」
「にわかには信じられん」
セバスチャンが首を振る。
「確かにね。その他の人はどうなのか、探してみたけど無理ね。分からない。でも、超能力少女の奇蹟には続報があった。ネットで読者メンバーになるとバックナンバーが読めるんだけど、その中に郵便配達の男の記事が出ていたわ」
「どんな?」
「その前に読者メンバーになるの有料だったのよね。経費で落とすわよ。すぐ退会したから1ヶ月分だけだけど」
「分かった、分かった。で、どんな記事なんだ?」
タートルネックのブルーのセーターを直しながらレベッカは話を続けた。
「この記事から3ヶ月後、郵便配達はミカのことをイカサマだとこき下ろした。実はミカの父親にね、金を払っていたそうなの」
「金を?」
セバスチャンも今は共同経営者の話に熱心に耳を傾けている。
「ええ。正しくは郵便配達の方から金を払ってもいいと言ったみたいだけどね。ミカの父親も深くは考えずに差し出された物を受け取った、そういうことだったわ。これは電話で叔母に確認した」
「それが何故イカサマだと?」
足を組み替えたレベッカのパンツがセバスチャンの目に入る。なんでこの女はいつも短いスカートを穿くんだ。
「見た?」
レベッカが聞く。
「見てない」
見たいわけがない。セバスチャンは38になる共同経営者のパンツに興味はなかった。
「嘘?」
「で、どうなったんだ?」
疑い深いというより確信に満ちた目でレベッカはセバスチャンの顔を見詰めると、それ以上の追求をやめて話に戻った。
「溺れる者は藁をも掴む、というわけでミカ・オーステルベルクに金まで払った郵便配達は大学病院でも治療を続けていた。放射線治療をやってたらしいわ。で、この記事から3ヶ月後、郵便配達は奇跡的に癌が治った」
「つまり、自分の癌が治ったのはヒーラーのおかげではなく放射線の効果だと」
「まあね。普通は放射線の効果だと思うわよね。それで、ミカはイカサマで、何の力もないと・・・」
セバスチャンはことの顛末に黙って首を振った。レベッカは再びミニスカートから伸びた足を組み替えた。今度は確実に顔を背けるセバスチャン。
「ただね、払った金額が1万ユーロだからね。しかもミカの父親からは金は返却されなかった」
「1万ユーロ(日本円で約130万円)!そりゃ悪態も着きたくなるな。父親は何故金を返さなかったんだ?」
「さあ、その辺のことは記事には載っていない。ただ叔母との話から推測するに、金を返せばミカが嘘つきだと認めることになるから、そういう理屈だったみたい」
「なるほどな。一理ある」
レベッカはソファから立ち上がると給湯室へ行った。しばらくするとスリランカ産の紅茶を持って戻って来た。
話に続きがあることは明白だった。セバスチャンは根気よくレベッカが話し出すのを待っていた。
彼女の性格をよくよく理解しないと共同経営は勤まらない。もっとも本当の出資者は彼女の叔母でセバスチャンにとっても血縁ではないものの遠縁に当たる。
「で、どうなるんだ?」
いよいよ焦れたセバスチャンがレベッカを促した。
「うん。この追加記事の半年後に今度は小さな記事が出た。この郵便配達が癌で死んだと」
「どういうことだ?」
セバスチャンは身を乗り出した。
「まあ新聞社としてはもう興味もない出来事だったんでしょうね。詳細は書かれていないんだけど、ミカを罵倒したあとすぐに癌は再発。あっという間に全身に転移して命を落としたと」
「何だって?」
「もちろん放射線が効果を発揮していたとしても再発はあり得るでしょうね。でも、ミカのことを告発した直後に再発して半年もしないうちに死ぬって・・・ミカが何かしたみたいにも取れるわ」
セバスチャンは心拍が速くなるのを感じた。単なる思い過ごしではなく、受けた事案の当事者、2人の女の子は何かの力を持っていたかも知れない。
だがセバスチャンはあまりに突飛な発想と思ったので、レベッカには話さなかった。
「もう一度オーステルベルク家に行ってみた方がいいようだな」
「つまり、郵便配達の遺族が何かしたかも知れないってこと?」
「いや。それは話を聞いてからだが、いくつか調べて欲しいことがある」
「OK、ボス」
38にしてはスレンダーなレベッカ・ボルダーはやけに和やかな笑顔を向けるとセバスチャンに言った。
そしてまた足を組み替えて見せた。今度はレベッカの白いパンツが目に入ってしまった。
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