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「シノブ君さ〜、かわいい声してるよね〜。あ、チェイサー人数分もらえる?」
カウンター越しの目の前にさっきの若い声優がいた。
「すみません気が付かなくって。チェイサーですね。ご用意します」
「俺、芳樹って言うんだ。よろしくね」
勝手に自己紹介をしている。
「あ、はい。こちらこそです」
「シノブ君、明石先生の教え子だったらひょっとしてひょっとする?」
何を言っているのかわからない。
「あの?なんのこと・・・」
そこまで言いかけたところで明石が割って入ってきた。
「おいおい、芳樹君スカウトでもしてる?」
「あは。バレちゃった。いや〜シノブ君かわいい声してるな〜と思って」
シノブは黙々とチェイサーを用意する。
「芳樹くん酔っ払う前にこれ飲んで」
チェイサーを一つ手に取り明石は目の前の芳樹の前に置いた。マスターがカウンターに戻ってきた。
「明石さん久しぶりですね。今日はありがとうございます」
そうマスターが明石に挨拶をした。
「マスターご無沙汰してます。霧島先生と前来たっきりになっちゃってて、すみません」
「いえいえ、霧島もいい加減なやつですから」
「ははは。確かに」
そんな大人の会話が始まった。
シノブは出来たチェイサーをテーブル席に運んだ。
「シノブ君はどこかの事務所に入っているのかい?」
さっきのディレクターが聞いてきた。
「いえ、僕まだどこにも所属はしてません。たまに知り合いにCMの声入れるお仕事もらえるくらいで。まだ全然なんです」
「そうなのかい?中性的でかわいい声をしているのにな。需要があるところにフィットすれば、君、売れるよ」
唐突にそんなことを言われて、嬉しくなった。
「需要があるところ・・・」
「君、一度、オーディションに来るかい?今度僕が携わる作品で若手を入れようって事になって、オーディションがあるんだよ。かわいい声のキャストを探していた所だし挑戦してみないかい?」
願ってもいないチャンスだ。
シノブは二つ返事で
「はい。是非お願いします。チャレンジしてみたいです」
そう答えていた。
「連絡先はこれね。この名刺のこの番号。俺田中って言います。俺に言われたって言って事務所に電話かけてくれたらいいから」
「わかりました。明日、改めてお昼に事務所にご連絡いたします」
そう言って名刺をエプロンのポケットに入れた。
その日のシノブのシフトは三時までだった。
丁度少し前にあの団体もお開きになってそれぞれがタクシーで帰って行ったところだった。
「マスターお疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れ様です。今日の出会いがいいものにつながるといいですね。頑張ってくださいよ」
本当に素敵なマスターだ。
夢の応援もしてくれる。
シノブはお辞儀をして店を出た。
帰り道気分が良かったシノブは、歩いて帰ることにした。もちろんこんな時間には電車は終わっている。いつもならタクシーを使う所だが今日は歩きたい気分だった。
家の近所のあの北公園まできた。
シノブは浮かれていたのだろう。
気が付いたら北東の角から公園に入ってしまっていた。ここは本当に暗い。引き返そうかと思ったが公園に入った辺りからなんとなく後ろに人影を感じていた。もうここまできたら引き返すよりも走って公園を抜けた方がいいような気がしていた。
シノブはダッシュで駆け出した。
もう少しでマンションの入り口が見える。
「おいおい!!待てって。待っててば!」
後ろの人影が何かを言っている。
やっぱり付いて来ている。
シノブはますます必死で走る。
「おい!シノブ君!そんなに走ったら俺ゲロ吐く〜」
ん??名前を呼ばれている。
しかもゲロ吐く?
シノブは後ろを振り返った。
そのままあかりのある所で立っていると後ろの人影が追いついてきた。
「あ、芳樹さん」
「シノブ君走るの早いって!まじで俺ゲロ吐きそう」
「え?やめてくださいよ。まあまあ飲んでるのに走るからですよ」
「いやいや、だってシノブ君走るから」
「いや、それは芳樹さんだって気がつかなかったから。怖いし・・・」
「あは!それもそうだな。この公園のこっち側、暗くて怖いって噂だもんな。ごめんごめん。それにしても、まじ吐きそう・・・」
「え?ほんとに言ってます?これ水です。僕の飲み掛けですけど飲んでください」
シノブはカバンの中からペットボトルに入った水を差し出した。
「ありがと。ほんと飲んだ後に走るもんじゃないわ〜」
水を勢いよく飲み干した。
「芳樹さんそれにしても何してるんですか?さっきお開きになってたじゃないですか?」
「そうだよ。だから帰り道。オレンチ、この近くだから」
「あ、そうだったんですね。ご近所ですか」
「帰ってたら、シノブ君見かけたから声かけようと思って。そしたら公園の中入って行っちゃうし・・・」
「あ、僕、ちょっと浮かれてしまってて。いつもならこの公園この時間には通らないんですけど、気が付いたら入ってて」
「あ、やっぱり怖いんだ。この公園。ははは」
「だって、昔からなんかそう聞いてるから・・・」
「え?なに。この辺が地元なの?」
「え、まあ」
「なんだ、じゃあ中学とか後輩かもね。あ、でも年が違うから、かぶってないか・・・」
「芳樹さんって、何歳なんですか?」
「俺?26だよ。シノブ君は21?」
「はい、今年で21歳です。まだ20歳ですけど」
「若いよな〜やっぱり。で、さっきディレクターにオーディション誘われてたでしょ?多分、それ俺も受けるオーディション。だから、何か困った事あったら言ってね。これでも俺キャリア10年だし」
「え?10年って。芳樹さんってひょっとして、芸名持ってたりします?声優名みたいな」
「あ、バレた?俺、本名の下の名前が芳樹なの。今日のメンバーはみんな学生の頃から知ってるから、いまだに芳樹って呼ばれてるけど芸名は吉木譲治。なんか渋い名前の方がかっこよくない?とか思ってさ〜」
「やっぱりそんな気がしてたんです。渋い声だな〜って」
「そう、ありがと〜。惚れちゃダメだよ」
そう言ってシノブにウインクをしてみせた。
「じゃあ、これ俺の連絡先だから。何かあったら連絡ちょうだい。何もなくてもご近所だし飯でも食おうぜ〜」
芳樹はそういうと名刺を渡してきた。
声優用の名刺だ。
事務所の名前と声優名『吉木譲治』と書いてある。
名刺の裏には今までの代表作がずらり。
実はすごい人なのだ。
「あ、ちょっと何か書くものない?プライベートの携帯番号書いておくから」
「書くものですか。え〜っと」
何もない。
「じゃあ携帯番号言うから鳴らして。番号は090ーーーーーーー」
そう言って携帯番号を言うものだからシノブは携帯でその番号にかけた。
「OKok!じゃあこれシノブ君の番号ね。登録っと。じゃあ、また連絡するわ〜。あ、ラインもこれだな。上がってきた。こっちで連絡するわ〜」
そう言って、スタンプを送ってくる。
「芳樹さん、またオーディションとかでお世話になることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」
シノブは深々とお辞儀をしてマンションに入ろうとした。
「え?このマンションなの?俺も」
なんと同じマンションだったのだ。
「シノブ君何号室?ここ実家?」
エレベーターホールでそんな話が始まった。
「実家というか、母とシェアしてるというか・・・。7階です」
エレベーターに乗り込む。
「お母さんとシェア?なんかよくわかんないけど。俺はここの1010号室。一人暮らしだから、寂しかったらいつでもおいで」
そう言ってまたウインクをする。
この芳樹という人は渋い声の割に軽い。
7階にエレベーターがついた。
「じゃあまた。おやすみなさい。芳樹さん。」
「うん、またねシノブ君。」
ドアが閉まる間際にシノブは突然手を握られた。
そして手の甲にキスをされた。
ドアが閉まる。
シノブは呆然とした。
それはまるでお姫様にするようなキスだった。
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