海魔は波の調べとともに

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『幸も不幸も、みんな海からやって来よる』  地元の老漁師が酒臭い吐息まじりに呟いたその言葉を、ふとした時に思い出す。すぐ横にいる父もまた赤ら顔で、狭い庭を見るともなしに眺めていた。  その日は風が強くて、白い波頭が無限に寄せては返し、寂れかけた町には似つかわしいざわめきを奏でていた。人気のない海岸を歩いていると、誰かの視線を感じて堤防の上を見上げた。女が顔を覗かせて、薄気味の悪い微笑をほんのり浮かべていた。目が大きくて、黒く長い髪が濡れているのが分かった。年齢は分からないが、高校生くらいだろうか。  無言で僕を見つめ続ける女が怖くなって、足早に去った。  家に戻ると、酔った父が酒の入ったコップを片手に野球中継を眺めていた。父は元々漁師だったが、左腕を失ってからは缶詰工場で働いている。  特に趣味などもなく、仕事が終わると直帰して酒を飲むだけの毎日だ。土日ともなると一日中酒瓶と過ごしている。会話はほとんどない。母は僕が幼い頃に死別しているのだが、仏壇どころか遺影すら父は飾ろうとしなかった。  深夜、窓枠ががたがたと鳴った。眠気まなこに窓越しに人影らしきものを見つけ、「誰だ!!」と声を上げると、それはさっといなくなった。  恐る恐る窓の周辺を確かめてみたが、変わったところは見つからなかった。ただ、翌朝庭を調べた僕は、思わず目を見張った。何者かの足跡(それも裸足の)があったのだ。父に相談しようかとも思ったが、グラスを手に庭をぼんやり眺めている父を見てその気はなくなってしまった。  その夜、僕は不思議な夢を見た。堤防で見たあの少女が、裸で僕に絡みついていた。魅惑的なその肢体を惜しげもなくさらし、初めてのことで極度に興奮した僕の拙い愛撫にも笑顔を浮かべ、甘い嬌声を上げた。その後、彼女は僕の手を取って、誘うように僕を連れ出した。  潮騒の鳴り響く海岸で、冷たい波が足元を濡らしてから、やっと僕はこれが夢ではないと気が付いた。彼女はどんどん沖に向かって進んでいく。腰にまで海水に浸かったところでさすがに本能的恐怖を覚え、思わず立ち止まった時、僕はあっと叫んでいた。彼女の両足は人魚のような尾鰭に変化していた。  その時、遠くから、懐かしい声が聞こえた。海辺を振り返ると、父が砂浜で片手を振り回しながら何か喚いていた。月明かりの下でくしゃくしゃに顔を歪めて、僕に戻って来いと叫んでいるようだった。  その声が僕の幼いころの記憶を蘇らせていた。母さんもまた、彼女と同じ姿になって父さんを海に連れて行こうとしたんだった。  きっとこの種族は、男の精を受けるために地上に現れるのだ。そして気が向けば地上で暮らし、飽きたら海に帰ってしまう。父さんは母さんを引き留めようとしたのだろうか、ともあれ母さんは興奮して父さんの左腕を噛み千切ってしまったのだ。目の前の彼女が見せているような、三角の巨大な歯で──────── §   『本日未明、xx町の海岸で少年の遺体が発見されました。身元は地元の中学生で、遺体の状況からサメに襲われたものとみられています。少年はどういう訳か夜遅くに海を訪れたと見られ、警察はその場に居合わせた父親から詳しく事情を聞いている模様です』
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