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 大宮は、今日も快晴だった。  空は澄んでいて、薄めた絵の具をまき散らしたような青一色のみ。浮かぶ雲はなく、まだ夕立の気配も感じない。反射する太陽光が、歩行者たちの肌をじりじりと焼いていた。彼らは時に汗を拭い、傘を傾けては紫外線から逃れようとする。皆暑さに参っているのは明らかで、うんざりとした顔を見せながら、のろりのろりとどこかへ向かっていた。 「ち、遅刻だ。まずい、ダメダメ」  そんな中、延々と独り言をこぼしている女子大生が一人いた。つまり、わたしなのだけれども。  きっちり着込まれた漆黒のスーツが体にまとわりついて気持ちが悪い。かかとの低いパンプスは汗で足裏に張り付く。歩くたびにペッコペッコ変な音がした。パウダーを振りまいただけの顔に桃色のリップの薄化粧は、すでに溶け出している。短めの前髪からは数ミリだけ眉毛を、少しばかり潜め、必死で走る。  不快感は、飲み込むしかない。だって、今はただ急ぐしかないのだから。  わたしは、就活生。そして、遅刻間際でもあった。  焦って靴をカッカと鳴らしながら、気怠げな面々の間を縫うように走る。首の位置で、一つに結われた髪が左右に揺れた。こそばゆい。 「ええと、この道は右? いや、まず階段を降りないと。むしろ、エスカレーターを駆け下りた方が早いのか。ううん、並んでいるから階段にしよう」  茶色い地面を践み、右往左往したが、意を決して前を見据えた。駅とつながったデッキを足早に抜け、商業施設脇の階段を駆け下りる。手元のスマートフォンに目を落としながら、進行方向を確認。今度は横断歩道を渡り、駅からどんどん離れていく。  ぽたり、と汗が滴る。上向きで握りしめられたままのスマートフォンに落ちては流れていった。そこにはすでに、いくつかの染みがある。縁が滲んだ丸形。うっすら混ざった塩気が白さを残すそれは、今日落としてきた汗だった。  それが通常出るべき量を超していることは、とっくに気がついていた。だが、慌てていたので気がついていないふりをした。  自身が発している警告にも耳を貸さないで。  角を曲がったところで、足がもつれた。踏みとどまったのは良いが、右肩から鞄が滑り落ちる。書類がたっぷりと詰まったその黒鞄は、ブロック塀にぶつかって動きを止めた。肘の位置でぶら下がったそれに「重い……」とうなだれながら、再び上へとずりあげる。  だが、一度崩れたバランスは、そう簡単には整わなかった。鞄の重みにつられ、体は右へと傾く。慌てて右手を壁につけば、また鞄が落ちる。  うんざりとした気分で空を見上げれば、ふいに頭が後ろに引かれるような感覚に襲われた。目の端からジリリと白い斑点が襲ってくる。  嘘、ここで貧血?  慌てて首の位置を戻すが、もう遅い。視界はすでに真っ白だった。何も見えない恐怖から、一歩も動けなくなる。手探りで壁を探し当て、手のひらを押しつける。不安定な支えを頼りに、硬直した。膝が笑っている。突如襲ってきた倦怠感は、決壊したダムのごとく襲ってきて歯止めがきかない。糸の切れた人形のように、体の自由を失った。  あ、これは遅刻確定だわ。  今にも気を失いそうだというのに、わたしの脳はのんきなことばかり心配している。いや、決して平和な感情ではない。就職活動中の身には、かなり切実な問題だった。  だが、何事も生死には変えられない。本能が現実の放棄を許さなかった。  正気に戻ったのは、地面に膝を打ち付けてすぐであった。鈍い痛みに、わずかながら理性が戻る。そして、自分が今にも地面へ倒れ込みそうなことに気がついた。  あ、これは痛い。本日三度目の心の声をつぶやきながら、地面にめり込む自分を想像した。上から見下ろすような第三者の視線で、あくまでも他人事のように。  だが、その行動は無意味であった。 「あっ、ぶない」  むにゅ、と弾力のあるものに当たり、体の動きが止まった。うっすらと開けてみた目に映るのは、骨張った背中。筋肉質とは言いがたいが、柔らかさの欠けたそれは、まぎれもなく男のものである。しかし、広いそこからは、堅さに似合わず、ふわりと甘い香りがしていた。  すん、と鼻を鳴らす。無意識だった。だが、そのおかげで意識があることに気がついたのだろう。男が声をかけてきた。 「大丈夫ですか。痛いところ、ありませんか」  かすれた低い声。若いような気もするが、落ち着いた口調は老人をも思わせる。困惑よりも優しさが勝ったその声色に、こくりと頷いた。 「あぁ、はぁい。問題ないです……」 「そのわりには、声に元気がないですけれどもね」  男の手が動く。腰に当てられた手がすすっと動き、背中の上方へ移動する。彼に支えられて転倒は逃れたらしい。  目の前、白くないな。ふわふわと逆上(のぼ)せながら思う。 「ありがとうございます」
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