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 ひどい臭いがした。鼻の奥がツンと叫ぶ。しかし、わさびのようなそれではない。むしろ、涙腺をダイレクトに刺激するような、じわりと鼻孔を攻撃してくるもの。とりあえず臭いがキツい。  そう、これはカレーとかで出会うもの。 「たま……ねぎ?」 「ん、起きた」臭いが遠ざかる。「大正解。貴女、良い鼻しているのね」  重いまぶたを開けた。滲んでいる。目の端からぽろりと流れた涙は、生理的なものだろう。目の前にいたのは、老婆だった。白髪を頭のてっぺんで団子状に結い上げたその様はまさにタマネギ。そして、手荷物もタマネギだった。  臭うはずだ。 「あの、どちら様で?」  椅子に座ったまま、老婆はえくぼを見せた。 「湖麦(こむぎ)ヨネ。どうぞ宜しくね、細魚(さより)佐代里(さより)さん。ーーええと、(これ)は本名なのよね、多分」  問いには答えず、わたしはあたりを見回した。室内はオレンジ色の光に照らされていた。木目のはっきりした板の壁。部屋にはいくつもの机が並び、各所2から4個の椅子がセットで置かれている。壁沿いのテーブルには、ソファー席もあった。部屋の奥は死角となっていて見えないが、おそらく同じような空間が並んでいるに違いない。  整理された座席。大勢の客入りを想定した部屋。  ご丁寧にカウンターまであるのを見れば、そこが喫茶店であることは明らかである。壁に埋め込まれた棚に並ぶティーカップはもはや、その仮説を補強する証拠でしかない。  そこまで考察してから、「おや?」とつぶやいた。  そういえば、すべての景色が斜めになっている。そこで初めて自分が横になっていたことに気がついた。どうやら、ソファーの一角に寝かされていたらしい。普段なら、すぐにわかる事実。それすら見逃していた自分は、よほど参っているのかもしれない。我に返り、慌てて体を起こす。  ぐらり、と視界が揺れた。 「駄目よ、まだ寝ていないと。熱中症で倒れていたんだから」  眉間を押さえていたわたしにヨネが告げる。そして、優しく肩を押した。 「まだ2時間しか休んでいないんだし、もう少しだけ大人しくしていなさい。明日もあるのだからね」 「あした……」  いや待て。倒しかけていた体に力を入れた。なけなしの腹筋をピキピキ言わせながら体勢を元に戻し、ヨネに詰め寄る。 「おばあさん! 今なんて言いましたか」 「ふえ? おばあさん……」 「そうじゃなくて、2時間? 2時間って言ったのっ」自身の唇が震え出すのがわかった。「め、面接。面接に行かないと。ええと、ここはどこですか。わたし、駅からすぐのビルに用事があって」  再び揺れる視界。歩けない。わたしはその事実を受け入れ、芋虫のように床を這って出口を目指すことにした。  それを見て哀れに思ったのだろう。老婆は苦笑した。 「高層建築は、沢山あるわよ」ヨネはのんびりと答えた。「それから、婆さん呼ばわりは止めて頂戴。私にはヨネという美しい名前があるのだから。佐代里さんだって、お嬢さんとかそこの人っては言われたくないでしょう」 「そうじゃなくて、面接」そこまで言って、わたしはふと思う。「あれ、なんで名前……。わたし、一度も名乗っていませんよね」 「身元は調べさせて頂いたので。ほら、この重たそうな鞄」  ヨネがタマネギを床に置く。それから、脇にあった黒い塊を引き寄せる。パンパンに膨れ上がった鞄だった。その正体を認識してたわたしは、すぐさま「返して」と短くつぶやいた。  あの鞄には、今年一年間ずっと必要ななもの、そのすべてが詰まっていた。エントリーシートはもちろんのこと、面接対策がびっちり書き込まれたノートや身支度のための化粧品一式およびエチケットブラシ、必勝祈願のお守りなどなど、就活生が命よりも大事にしているリクルート用品たち。今日は無理でも、明日は必要。それが無理なら明後日。先の見えない人生を支えるための杖。あれがなければ、面接すらまともに受けられないだろう、と直感していた。  鞄に向かって手を伸ばす。ヨネはあっさりと荷物を返却してくれた。胸の前にそれを抱えると、今度こそ立ち上がる。怒りが先行するせいか、もう、立ちくらみなどは起きなかった。 「助けていただき、ありがとうございました。申し訳ないのですが、先を急ぎますので、お礼はまた後日」 「礼なんて良いわ。ただねぇ、貴女をここへ連れてきたのは私じゃないのよ。その子に会ってから帰っても遅くはないんじゃないかしら」 「そ、それは」  
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