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首を動かした。斜め45度程度上。眼前に細い顎が映った。そこがカクカク動き、するりと言葉がこぼれ出る。
「何か飲み物をくれ。奥の客人が話し疲れて黙り始めてしまったんだ。これじゃ商売にならない」
ひょろりと背の高い体。揺らしながら歩くのは一人の男だった。
「悪いわね。生憎と、今日は料理しかないんだよ」ヨネは、わたしに渡しかけていた鍋を引き寄せ、ヨネはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。「醤油なら、腐るほど有るんだけれどもねぇ。どうだい、掬って行くかい?」
「……くそったれ」
苦々しく吐き捨てて、彼は歩き出す。その腕をわたしは掴んだ。男の声に、聞き覚えがあったからである。
「あの、あなたがわたしを助けてくれた……?」
男は足を止めた。そして、冷たく言い放つ。
「礼はいらない。僕は運んで放置しただけ。実際の看病は、そっちの婆さんがやっていたんだし」
人影が首を動かす。うつむいた際に前髪。その間から除く赤茶色の瞳。
この人だ。わたしは息を飲む。そして、驚いた。
「さっきと全然態度が違う……」
「あ? そりゃそうだ」彼は顔を上げて、うんざりとしたように言った。「勝手にぶっ倒れるし、そのくせ病院は嫌だって叫ぶし。あなたの声、うるさいんだよ。頭に響く。おかげで、薬を飲む羽目になった」
「えっと、ごめんなさい……?」言葉の意味がわからないまま、謝罪する。「え、そんなに耳障りな声で話していましたか、わたし。今まで、耳障りだとか言われたことはないんですけれども」
「誰もそんなことは言っていない。響くと言っただけだ」
「だから、それはつまり」
モゴモゴと言い淀む。意味がわからない。
「いや、深く考えるな。あんたが悪いわけじゃない」
「はえ?」
わたしをじっとりと睨みつけていた彼は、苛ついたように椅子を蹴飛ばした。床に倒れた四つ足の無機物が鳴く。その音にわたしは肩を跳ねさせた。
「あぁ、もう。婆さん、なんでこいつを早く帰らせなかったわけ?」おびえるわたしを見下ろし、彼は次いでヨネに向かって吠える。「面接があるって言っといただろ。もうちょい早く起こしていれば、間に合ったかもしれないのに」
「良く眠っていたからね、忍びなくて」
ヨネは目をそらしながら言う。彼は「嘘つくな」と彼女に詰め寄った。そして、その骨張った肩に手を置きながらあざ笑う。
「タマネギで起こしておいて、よく言う」
「え、見ていたんなら止めてくださいよ」
いや、起こしてくれたのはうれしいけれども。恐怖は吹き飛び、今度は怒りがわく。複雑な思いを噛みしめつつ、それらを抑えながら冷静に告げた。しかし、男は鼻で笑うのみ。
「知らん。興味ない」
「いやいや、矛盾」
なおも言いかけたわたしをを制したのは、ヨネだった。先ほどと同じく、桃色の唇にゴツゴツした老婆の指が添えられる。食べてしまいそうなほど近い距離に、「うぅ」と押し黙るしかない。
その声に混ざるようにして、何か重いものが滑る音がした。それに続き、軽いものが落ちたらしい。一つではない。複数のものが、バラバラと、堅い音を立てて落下しては地面に当たっている。
ヨネの視線が音のする場所へと動く。わたしの後ろ側。男が来た方向だった。
「覚」
老婆が短く言ったのは、男の名だったのだろう。
その声と同時に、脇に立っていた男が顔色を変えた。回れ右すると、足早に奥へと戻っていく。バタバタと遠ざかる足音。目的だった飲み物も持たず、彼は走り去る。
わたしは振り返った。しかし、問題が起きているのは死角らしかった。後ろを向くだけでは見えず、体の位置を変えた。椅子に座ったまま体を傾かせ、店の奥をそっとのぞき込む。
斜めに曲がった景色。あまり見ない光景を前に、わたしは驚きを隠せなかった。
不揃いに鳴っていたのは、テーブルから滑り落ちたカードだった。色とりどりのそれが宙を舞い、床に積もる。音が断続的に続いているのは、机の端に置かれた束がバランスを崩しては1枚だけ落下することを繰り返しているからだろう。
わたしは少しずつ、ゆっくりと体を起こした。尻の位置を変え、傾いた視界を立て直す。其れと同時に、視線もどんどん上へのぼっていく。
机上に残ったカードの脇には、腕がある。テーブルの前には、一人の女が座っていた。ウェーブした黒髪に細いシルエット。後ろ姿だけ見れば、おそらく美人。
だからこそ怖いのだ。彼女の背が震えているその様子が、まとっているオーラが、黒い怒気一色であるということも。
女の正面で、椅子が引かれた。座ったのは覚であった。身を乗り出し、女の手を掴む。
「大丈夫です。僕の占いは必ず当たります。どうか、アドバイスを忘れないで……」
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