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 男の名前は、朝比奈(あさひな)(あかり)といった。猫背をさらに丸め、縮こまりながら肉じゃがを食べている。彼自身は何も言葉を発さない。代わりにペラペラ喋るのは、東であった。 「朝比奈君は、ボクの依頼人なんだ。彼は以前、ある事件の最重要参考人だった。一ヶ月ほど前までは、連日警察に呼ばれていたのだよ。おかげですっかり参ってしまい、今ではこの有様。当初から痩せ気味ではあったのだけれども、近頃じゃ幽霊のようになってしまって、ろくに食事もとれていない。きっと今日も、この肉じゃがが初めての食事じゃないかな」 「……重くないんですかね」わたしは首をかしげた。「確かに、この肉じゃがは不思議と食欲をそそりますが、メインですから。こんなに具合悪そうな人ならば、スープとかが良かったんじゃないでしょうか」 「婆さんが作った料理なら、どんな状態の人間でも食べてしまうんだよ。一度口にしてしまえば、食べることをやめることができない、そういう呪いがかかっているから」タロットカードを整理しながら覚は言う。「おっと、何でなのかとは訊かないでくれよ、お嬢さん。私情は仕事の邪魔になるんでね」 「ヨネさんは魔女なんだよ」  東が遮って話す。カウンターの奥にいるヨネを見てみれば、にこにこと笑って頷いている。まぁ、あの年齢の刻まれた姿は、おとぎ話の魔女にも見えなくはないが……。 「深いこと考えるな。狸親父のジョークだよ」 「本当の話だって言うのに、酷いなぁ。キミだって」 「東、いい加減にしろ」覚はカードを机にたたきつけた。「いい加減、仕事を始めようぜ。じゃないと、日が暮れる。いくら夏の夜が長いって言ったって、一日は24時間しか無いって決まっているんだ。僕は時間を無駄にはしたくない」 「オーケー、オーケー。そう怒るなよ。ボクだって、時間は惜しいんだ。彼のためにもね」  東は前にいる依頼人をちらりと見た。そして、静かに話し出す。 「まず、彼がなぜボクのところへ来たのか話そう。とはいえ、大体察しはついているかな。重要参考人と先に言ってしまったからね」 「つまり、彼は事件に巻き込まれたんですか」  東が大きく頷き、机上に両肘をついた。指を絡め、第2関節の上に顎をのせる。 「そういうこと。事件は単純だ。彼の妻が毒を飲み死亡した。飲み物にヒ素が混ぜてあったんだが、まず、その飲み物は彼女だけしか飲まない梅酒であった。そして、自身が着ていたエプロンから、ヒ素が入っている瓶が発見されたんだ。どういうことかわかるかい?」 「自殺か?」  覚がカードの束をいじりながら問う。置いた際にできた乱れを整えているらしかった。 「おそらく。とはいえ、朝比奈君自身が妻は自殺なんかしない、と騒いでしまってね、現場は大混乱さ。だって、彼女の死に立ち会った人物は朝比奈君と彼の母親しかいない。となれば、二人が疑われるのは当然だろう。その結果、捜査はどんどん混乱、朝比奈君は消耗してやつれてしまった。まぁ、それはそれで好都合でね、参った彼は、ついに妻の自殺を認めたのさ。ーーこうしてやっと、警察の捜査が打ち切りになったんだ。疑いの晴れた朝比奈君は安心して眠れるだろうし、ボクの依頼も完遂したものと思われた。だって、犯人ではないことがわかったわけだしね。これが、一週間前の話」  東が箸を持ち上げる。そこにはニンジンが刺さっていた。よくよく見れば、彼のお鉢にはニンジンとタマネギしか残っていない。注文時の様子から察するに、きっと野菜が苦手なのだろう。  案の定、東は顔をしかめながら箸を口に入れた。そして、ほぼかまずにニンジンを飲み込む。ごくん、と喉が大きく揺れた。 「三日ほど前に彼の母親から連絡を受けた」箸を置き、東は話を続ける。「ここ数日、息子は何も食べない、なんとかしてほしいと。ボクは断りたかったんだけれどもね、彼女が必死で頼むからどうしようもなくてさぁ。病院にも付き添ったけれども、精神的な問題だって言うばかり。解決方法もないから、とりあえずキミに連絡をしてみたわけ。どうだろう、覚君。なんとかしてはくれないかね」 「婆さんの飯でも食わせておけよ。まぁ、たまにメニューが飲み物になるわけだが……今の朝比奈さんからしてみれば、口に入ればなんだって同じだろう?」覚はめんどくさそうに言ってのけぞると、椅子の背に首を預ける。「そうすりゃ、少なくとも死にはしない。東が毎日届けてやれば、問題ないだろう」 「ボクはそこまで暇じゃないよ」 「じゃぁ、回りくどいことするな。はっきり口にしろ」天井を見ていた彼は、顔を正面に戻す。「僕に何を訊けって言うんだ」 「訊く?」  わたしは繰り返した。しかし、それはどこか途方のない場所へ吸い込まれてしまったらしい。その場にいた誰もが、わたしの問いには答えなかった。ただ聞こえるのは、東の言葉のみ。 「彼が何を望むのか、それが知りたい」
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