早く逃げろ!

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早く逃げろ!

亀山城 本丸 ~光秀公もこの景色を楽しんだといわれています~  目的地に辿り着いた稽人は明智光秀になりきり、彼も同じ光景を眺めていたのかな、と感慨に浸った。しかし城跡なのでもちろん平地である。決して眺めがいいとはいえず、内堀に溜まった汚水が木々の隙間から見える程度だった。  首と体を回しながら傍観した後、腕時計で時間を確認した。七時五分。そろそろ戻らないとまずい。  上りと違って下りの足取りは軽かった。足場にだけ注意して重力にただ従うだけだ。  行きのスピードとは雲泥の差で巨大な門が見えるところまで帰ってきた稽人は、路肩にある小さな祠を発見した。 こんな祠あったかな。頭にはてなマークが数個出現し、唖然として立ち尽くした。苔や石垣などに同化していて気づかなかったのか。  石垣と同じように苔が蔓延している祠を観察した。中には柔らかい表情のお地蔵さんと、彼が持つ小さい絵馬があった。 かがんで視線を合わせた稽人は、お地蔵さんの優しい表情にやけに親近感を覚えた。石の形を整えて赤いバンダナを付けただけなのに、どこか温かみが感じられた。  静かに絵馬を取り上げた。その絵馬には何かのプラグが入りそうな穴と無数の電球が淵に埋め込まれていた。 【立派な人になる】絵馬に書かれた可愛い文字を見て、稽人は女の子が書いたものだと予想した。そして次のことを思った。 「立派な大人か。僕もいつか、池田晃一さんのような……」  頭上から破壊のような音が轟いた時には、視界は石垣のパーツであろう大量の石で覆いつくされていた。稽人はすかさず祠に手を突っ込んだ。自分の無事を考える前に、体がそうしていた。 「何をしている。早く逃げろ!」  落石の波を祠の中で凌いでいる最中、門の方向から大きな叫び声がした。「次の落石がくるぞ」  その声の主は瞬く間に現れて、稽人の服の裾を引き寄せた。突然謎の力によって尻餅をついた稽人は、平衡感覚を失って後方によろけた。段差の角に右肩がぶつかり鈍い音がした。勢いのまま頭から落ちそうになった稽人を、叫び声の主が止めにかかったが、抑えられず二人はプロレス技での地獄車のようにお互いが上下になりながら転げ落ちた。門の内側の角に背中がぶつかると、骨が砕けるような激痛を感じた。 次の瞬間、助けてくれた男の後頭部越しに衝撃の光景が映った。何年の歳月も眠っていたと思われる巨大な岩が、祠を木端微塵にしたのだ。祠ではなく彼の後頭部にピントが合っていたことが、稽人にとって唯一の救いだった。 「なんで逃げなかった! こんな落石なんて、第二波、第三波が来てもおかしくないだろ」  目鼻口のはっきりした少年が、稽人に詰め寄った。一重にしては、やけに大きい目だと思った。  躍起になっている少年の言葉を稽人は苦い顔で制した。 「実はこれを助けたくて」  右手を頭の後ろに持っていき、照れながら、後ろにいるお地蔵さんを見せた。左手には絵馬をしっかり握っていた。  稽人は最初に落石を見た時、自分より先にお地蔵さんの危険を感じたのだった。そして自らが覆いかぶさって守った。第二の落石から逃げる際に尻餅をついたのも、勢いよく転げ落ちたのも、お地蔵さんと絵馬をずっと両手に抱えていたからだった。 「お前なぁ……自分が死ぬとか、考えなかったの?」 「だって、僕が守らないと、お地蔵さんが粉々になっていたかもしれないから」 「自分が粉々になる可能性は考えなかったわけ?」 「お地蔵さんは僕に笑ってくれた。助けた理由はそれだけじゃ駄目なのかい 愚直に話す稽人におかしくなったのか、少年は絵にかいたような苦笑いをした。 「流石、目的のために手段を選ばない男だな。そりゃ父さんも認めるはずだ」  額に手を当てながら少年はいった。 「どういうこと? 僕、君も君のお父さんも知らないよ」首を一五度傾けた。 「俺はともかく、親父は見たことあると思うぜ」  息を落ち着かせた彼が放った言葉に、稽人の首の角度はもう一五度傾いた。 「俺、伊豆蒼蓮っていうんだ。伊豆大島の伊豆に蒼白の蒼に紅蓮の蓮。お前は名前なんていうんだ?」 「伊達稽人。伊達政宗の伊達に稽古の稽に人。それより、伊豆って」 「そう。親父の名前が伊豆誠」 「やっぱり、あの管理人の」息子と名乗る少年の横に、鬼の血相をした伊豆さんの姿が浮かんだ。 「当たりだ。お前が城跡周辺を観察していたの、逆に親父に観察されていたよ」 「え! 嘘……」  誰にも見られていない完璧なポジションで観察をしたと思っていた稽人は、心の中で腰を抜かして驚いた。実際に腰を抜かさなかったのは、後ろにお地蔵さんがあることが頭の片隅に残っていたからかもしれなかった。 「それにお前、近所の人たちに聞き込みしただろ。子供があんなことしたら、目立つに決まっているだろ」 「……考えてなかった」 盲点を突かれた側は突いた側を直視できないのだろうか。稽人は頬を赤らめていた。 「でも、父さん期待していたぜ。あの子がどうやって侵入するのか見物だって。夕食の時なんてその話ばっかり」 「驚いたな」 「所詮子供の行動なんて、大人にはお見通しだ」  大人に恨みでもあるような表情で、蒼蓮は空を見上げた。稽人もつられて視線を外すと、道中に怪しげな物音がした草むらが目に入った。 「じゃあ、さっきの物音は君だったわけか」稽人は合点がいった。 「物音がなっていたのかは知らないが、俺はずっとこの上にいたぜ」蒼蓮は長い人差し指で門の上を指した。 「やっぱり二階あったんだ。というより、そもそもなんで君はここにいるの?」 「父さんが何度もお前の話題をするから、なんか気になっちまってよ。ビールを飲みながら饒舌に話す内容から分析して、この時間帯じゃないかと予測した。本丸前のここは絶対通るだろうし、上からだと管理事務所の辺りを一望できる。そして案の定お前が現れた。お前がしゃがんで畑中さんの目を掻い潜る姿なんか、ハラハラしたぜ」 蒼蓮の言葉が頭に入り、その内容を理解するまで稽人は数秒かかった。 「でも日付までは分からなかったから、今日で張り込み三日目だけどな」  高笑いの裏をしている彼に、稽人の心は少しばかり震撼した。頭のネジがどこか外れていなければ、確証もないことに人間は三日も費やさない。 「こんなところに忍び込むなんて、やっぱり歴史好きか?」 「もちろん」野暮なことを聞かないでよ、と稽人は付け足した。「この世でなによりも」 「予想通り、変で面白い奴だな」  君もなかなか変わっているよ、と稽人は口にするのを辞めた。「僕って面白いのかな」  雑談を一通り終えると蒼蓮は腕時計に目をやった。 「ここでダラダラ話すのはまずいな」 「もう七時半回っちゃった。畑中さんに怒られるな」 「俺も一緒に謝ってやるよ。それで駄目だったら、父さんを召喚するから大丈夫。心配するな」 「うん。どうもありがと」  蒼蓮は立ち上がり、臀部の砂を払った。そして立ち上がろうとする歴史オタクを凝視した。 「お前嘘だろ。それを持っていくのかよ」  稽人が両手で抱えていたのは、赤いバンダナをぶら下げたお地蔵さんだった。 「だって可愛いそうじゃないか、ここに置いとくの。あんな瓦礫で崩壊した祠に戻すなんてできないし……」蒼蓮は屋根の大部分が欠けた祠に目をやった。 「でもなぁ。それ重いぜ。しかもさっきお前右肩怪我しただろ」  ふらついた時に段差の角に肩をぶつけたのを、蒼蓮はしっかり目撃していたらしい。稽人は肩に手を置いて渋い顔をした。 「痛いよ。凄く痛い。でもそれイコールこのお地蔵を置いていっていい理由にはならないよ」 「ああ、分かったよ。分かった」蒼蓮は痺れを切らしたのか、雑な返事でこの場を制した。 「いいよ。俺が持ってやる。丁度ナップザック持ってきたからな。でも畑中さんに渡すぞ」  道の隅に置いてあったそれを手に持つと、蒼蓮は入り口を大きく両手で広げて、稽人にお地蔵さんを入れさせるように顎で示した。 「ありがとう。蒼蓮君いい人だね」 「あれ、お前絵馬は?」  ナップザックの中をジロジロと眺めていた蒼蓮は、少し焦ったような口調で訊いた。 「僕のポケットにあるよ。落石を避けている時、咄嗟にしまった」ポケットをポンポンと叩く。しっかり守ったことを蒼蓮に伝えたかった。 「早くこの中にしまえ。落としたらどうする」  何を急いているのか分からなかったが、稽人は蒼蓮のいう通りお地蔵に絵馬を持たせた。 「じゃ、帰るぞ」  蒼蓮はナップザックをリュックのように背中から掛けて歩き出した。お地蔵さんがいる部分が極端に下がっている。稽人はその斜め後ろを歩いた。目線がうなじより少し上辺りだったので、自分より一回り身長が高いと思った。
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