イラストレーター

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『千』結成の翌日、弁当を瞬時に片づけたメンバーは廊下に集まっていた。視線の先は三年四組だ。 「彼はどこにいる?」蒼蓮が目にかかった前髪をどけながら訊いた。 「見つけた。窓際の前から三番目。なにか黙々と作業しているね」 「よし、俺に任せろ。交渉はお手の物だ」  風豪は威勢のいい言葉と共に右手を掲げた。「いい腕っぷしだな」と蒼蓮が突っ込む姿がなんともシュールだ。よく焼けた肌と真っ白の歯の色が違い過ぎて、稽人は笑った。 「よう。久しぶり。春休み挟んで一層画力が増したな」 「久しぶりだね。ありがと」  脆弱な体つきに見える山邊蘭一はそっと呟いた。その声の小ささに少し離れてみていた稽人は口を動かしただけではないかと思った。隣の蒼蓮を覗き込むと、口をぽかんと開けていた。きっと同じことを思ったのだろう。そして、きっと自分も彼と同じ表情だろう。 「編集長から良い反応貰えたのか?」 「僕を気に入ってくれている人は大勢いるから頑張れ、ってさ」 「そっか」 風豪がもうひと踏ん張りだな、という姿を見て稽人は彼の人脈の凄さに改めて感心した。 「今日、実は蘭一にお願いがあってきた」彼のセリフに蘭一は顔を上げた。  風豪が頷きに従って、他二人は彼に並んだ。蘭一は目を丸くしている。 「俺たち『千』っていうチームでアプリ開発をやっている。この真面目顔の伊達稽人がディレクター、こっちのひねくれがりがりの伊豆蒼蓮がプログラマー開発本部はこいつの家だ、そして俺がマネージャー。開発は順調だったけど、絵という壁にぶつかって立ち往生してしまった。イラストレーターに頼むお金とかはもちろんない。だから、絵の練習だと思って、協力してくれないか。もちろん、収益が出たら報酬は払う」  皮肉な言葉にこめかみが反応したが、稽人はマネージャーに倣って両手を合わせた。 「うん。いいよ。丁度今書いている作品に一区切りついたし、違うタッチの絵の練習もしたいし」  あっさりとした承諾に『千』は少し固まった。 「じゃあ、依頼をする内容が決まったらまた連絡とるから」 「あの」風豪が踵を返そうとすると、蘭一は静かな声で止めた。 「僕もその本部を見てみたいのだけど」  彼の言葉に風豪は稽人を、稽人は蒼蓮を見た。家の主が蒼蓮だからだった。 「来てくれるのか。忙しそうだから無理だと思っていたが、それは嬉しいし好都合だ。もちろんOKだ。放課後ピロティに集合しよう」  蘭一が頷くと、チャイムが鳴った。次は音楽なので音楽室に向かわなければならない。 「蘭一君を『千』に入れてあげるのはよしたほうがいいね」  アルトリコーダーを剣のように振り回している風豪とダルそうにつまんでいる蒼蓮にいった。 「なんで? メンバーが多けりゃその分捗るだろ」参加に賛成的なのは風豪だ。 「俺も加入はすべきでないと思う。彼は休み時間、皆が暇な時間をつぶしている間に、彼は必死にペンを握っている。あの中指にできたペンダコはそれだけで尊敬に値するね」  蒼蓮が人を斜めから見ていない姿を見るのは初めてだと、稽人は思った。 「じゃあ、それら背景を三十枚、四ヵ月だから週二枚くらいのペースで頼んでもいい?」 「分かった。いいよ」 「ほんとにありがとね。漫画に支障をきたすようなら、すぐに風豪にいってね。絡みづらかったら、僕に連絡してくれてもいいから」 「おいおい、誰が絡み辛いって?」 「はは。冗談だよ。嘘に決まっているじゃないか」  蒼蓮の部屋で稽人と蘭一は意気投合していた。無口同士というのもあるが、蘭一が描く漫画に戦国大名を好きなキャラが存在するというのが、二人の息があった要因だった。 「伊達君はいつから歴史が好きなの?」 「知りたい? 僕が歴史にのめり込んだきっかけはね」 「あーあー」蒼蓮はゴホン、ゴホンとあからさまな咳をした。 「己の世界に入る前に、まとめてもいいかな」 「『千』の頭脳が軽くお怒りだぞ」茶化した風豪の足を蒼蓮はつねった。「いてて」 「山邊君、君は伊達と風豪を伝って随時情報を得ながら週二でイラストを描く。それを風豪が定期的にチェックを入れる。ペンタブとかは家にあるんだったね。完成次第、データを俺のパソコンに送る。こんな感じでいいか?」 「うん。……一つお願いがあって」蘭一は上目遣いで蒼蓮に訊いた。 「なんだ」 「ここの作業場を伊豆君が旅行とか行ったりしない限り、開けておいて欲しい。この作戦が描かれたスケッチブックとか、他の資料とか、絵を描くにはなるべく多くの情報が欲しいんだ」 「それは俺も少し前から考えていた。ここを開発本部にしたのなら、皆がいつでも利用できるほうが、効率がいい」 「でも、ここは蒼蓮君の部屋でもある」稽人は指で部屋の床を指した。「勝手に入るのは流石に気が引けるよ」 「パソコンに触れなければ問題は無いぜ」  そういって、部屋の主は窓をカラカラと開けた。外からの優しい風が部屋の空気を和らげた。 「お前らだけにこの部屋の秘密を教えてやる。実験するから見ててくれ」  彼は壁のヘリと窓の枠を掴むと、身を乗り出した。顔をしかめながら屋根の上に片足を乗せている。表情から察するに、屋根の上はかなり汚れていたのだろう。 「窓を閉めてくれ。もちろん鍵もだ」  稽人は蘭一と顔を見合わせた後、いわれた通りにした。鍵は半円のものを回すタイプだった。ガラスの向こうで一人日向に曝された彼は、窓に手を張り付けて左右に動かし始めた。すると奥に刺さっていた鍵が少し回転した。次に窓の淵に手を移動させて、上下に動かした。手の筋の張り具合からかなり力を入れているのが分かる。しばらくそれを続けると、カタカタと音を響かせながら半円が閉める前の状態に戻った。最後にカンという音が周りに響いた。蘭一は目を輝かせていた。相当驚いたのであろう。 「どうだ」得意げな顔をして蒼蓮は窓を開けて中に入った。 「泥棒に見えてきたよ」 「泥棒はこんなことをしない。窓ガラスを割って瞬時に仕事をこなすからな。線路の近くにある家なんかは、音を列車の通過音でかき消されるから注意が必要だ」  身振り手振りを加えながら、物知りは続ける。 「奥さんがベランダで洗濯をしているときに、子供が窓の鍵を誤って閉めてしまい、締め出されるということがよくあるだろう。これはその時の対処法だ。知識と練習さえあれば誰だって出来る」 「お母さんをベランダに閉じ込めた経験があるの?」 「昔な。だが、今となってはいい思い出だ」  蒼蓮に優しい空気が横切った。彼の両親は離婚している。脳の隅にあった淡い思い出を取り出しているに違いなかった。 「下の倉庫に脚立がある。それを使って屋根に登れば窓まで手が届く。好きに使ってくれ。ただ、俺のパソコンとその周辺は指一本触れるなよ」  親からのいいつけのように感じた稽人はイラストレーターと共に、うん、と顎を引いた。 「瑠奈? さあ、知らないわ。あんたが最後に会ったの、小学校に入学する直前だったもんね。あの頃は独身だったけど、今どこで何をやっているのかしら」  花の金曜日の夜の食卓に、稽人と母の伊達晴美はついていた。「金曜日くらいは一緒にご飯食べなさい」と昨今いわれ続けてきたので、この日だけは彼はいち早く帰宅することに決めていた。 「入学式の服を調達しに出かけた日だから、十年前くらいだよ。たしか京都市内へ行った時に家に寄ったような気がする。あのお姉さんイラストレーターをしていただろ? 久しぶりに顔を見たいと思って」  カチャカチャと母が持つ箸とお茶碗がぶつかる音が徐々に大きくなっていくのが分かった。ひとつ屋根の下で暮らしてきた関係だから不機嫌な時は、言葉にしなくても察することができるのだ。 「それより、あんたちゃんと勉強してね。最近よく遊んでいるじゃない。受験生なんだから真面目にしなよ」  そういった後、晴美は味噌汁を飲み干した。稽人もこれ以上言葉を発するのが億劫になったので必死に顎を動かした。  自室に戻るとベッドに寝転んでスマートフォンを起動した。SNSをサーフィンしていると、動画サイトに池田晃一の「好きな武将ランキング」というタイトルの動画を発見した。サムネイルには「本気(マジ)で選んだ」と書かれていた。 「稽人、入るよ」  ノック音に続いて晴美が入ってきた。その表情はどうも乗り気でなかった。 「はい、これ瑠奈の住所。今は引っ越して京都の端っこにいる。ほとんど大阪だからここからだと二時間はかかるよ」  そういって、一枚のメモ用紙を息子に手渡した。メモには綺麗な字で住所が書かれていた。 「ありがと。ちゃんと勉強するよ。ほら、僕、学校内の順位でも三分の一以内に入っているから。そんなに心配しないで」口元を緩めながら山積みになった参考書を指差した。  翌日、稽人は京都市内へ行く電車に揺られていた。
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