突然の......

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突然の......

華奢な竜と『直接本丸へ行けるルートはこちら』の文字を通り過ぎて、『お帰りはこちら』と看板で記されていたアスファルトの道を、しばらく歩いた。滑らかな下りの道は、疲れ切った足腰に絶妙なダメージを与えてきた。 前を行く蒼蓮は、心なしか早足だった。それとも、普段から彼は歩くスピードが常人より早いのだろうか。  翼の羽ばたく音と、馴染みある鳴き声を響かせながら、カラスが二羽、稽人の上空を通過した。 「昔の人間はこういった。カラスの声は不吉なことが起こる知らせである、と」  小さい頃、お母さんに寝床で読み聞かせをしてくれた絵本の出だしを、稽人は思い出していた。気づかぬ内に全身の毛が起立していた。  バキッ、バキッッツ! 竹藪の中から、知らない男が出てきた。不吉な連想をしていた稽人は、テレビで見ていたクイズ番組の四択の答えを予想してなんとなく当たった時の数百倍驚いた。今度は心の中ではなく本当に腰を抜かしてしまった。  男は春になったとはいえまだ肌寒いこの季節にも関わらず、ポロシャツの上からスカジャン、下はペラペラの半ズボンとかなりの軽装だった。顔は守られていて、ニット帽にサングラスに黒マスク、と目だし帽よりも顔の判別が付かない仕様だった。 「その鞄を渡しなさい」黒マスクの下から、ニュースで容疑者などからよく耳にするような、低い声がした。すり足で下がる蒼蓮に近寄りながら男は右手を差し出した。 ――不審者がいたら、その場で何が正しいかをすぐに判断すること――  どこかで耳を通過したことのある言葉が、稽人の頭を過った。脳は対処法を練る前に、思いつく案を泡のように浮かべた。  戦う、叫ぶ、従う、逃げる、話す、泣く。さあ、どれを選ぶ。  乱闘は体格差がありすぎる。こんな山奥で叫んでも応援は期待できそうにない。それは泣き声を荒げても同じことだ。こんな怪しさマックスの人と話したって、解決できそうにない。現に彼は「鞄をよこせ」といってきている。  従うと逃げるの二択に迫られたとき、ふとお地蔵さんの顔が浮かんだ。蒼蓮が絵馬を大事そうに扱っていた光景も浮かんだ。  ――月明かりに淡く照らされた病室。床についているのは、稽人のお父さんだった。口には透明の大きなマスクをして、体中の至るところにコードが張り巡らされていた。お父さんは脳卒中による脳梗塞だった。部長からの圧力、年下上司からの嫌味な気遣い、若手が与えてくるプレッシャー、外部の野次馬など、彼は社会の波によって輝く人間の片隅にできた、反動の請負人だった。午後八時ちょうど。お母さんは当時小学四年生だった稽人の送迎のために一度家に帰らなければならなかったので、「念のため」といい残してトイレに行っていた。中高生と思わしき喧騒と笑い声が、窓を乗り越えて病室にやってきた。音量を極限まで落としたほとんど無音のテレビの中では、賞レースを勝ち取ったお笑い芸人が、顔中を涙で埋め尽くしてガッツポーズを決めていた。稽人の横にあったベッドテーブルの上に置いてあった雑誌には、『どん底にいた四人が国民的歌手へと成りあがった軌跡を赤裸々に語りつくす』と大きな見出しとともに特集が組まれていた。ふと、前髪が揺れた。ドアからやってきた隙間風か、はたまた病室の空調か。きょろきょろ辺りを見渡した稽人は、しわしわの瞼を露呈させたお父さんと目が合った。 「稽人、いいか、自分が正しいと思ったことをしろ。自分の人生を生きろ。進みたい道を進め。やりたいことをやれ。命を燃やしながら生きて、絶対後悔する人生にするなよ」  途切れ途切れでハスキー気味だったが、強い眼差しと震える指先から話の骨組みは稽人に伝わった。 稽人は病室を出る時、人間から溢れ出る、生きようとする気力のような熱の籠った魂をお父さんから感じることができなかった。次の日からお父さんの病態はみるみる悪化した。暗闇に包まれた井戸の底に落ちていくように、一週間後お父さんは死亡した。稽人が市の駅伝大会で優勝した日の、二年前の夏だった―― 逃げようと叫んだ時には、稽人も蒼蓮も反対側に走り出していた。 来た道を全力で戻る。滑らかな坂はふくらはぎと腿をじわじわと膨らませた。 「そこの二人、待て」  稽人は飛ばしすぎたかな、と思って後ろを向いた。すると蒼蓮はすぐ傍まで来ていた。自分のペースについてこられる人間は学校の中でも数少なかったので驚いた。 蒼蓮の数メートル先には不審者がついてきていた。彼に恐怖という目に見えないものが張り付いている気がして恐ろしかった。 「そこを乗り越えれば、近道だぞ」  蒼蓮が道路の横にあったワッフル型の壁を指差した。たしかにそこを登れば、低木を踏みつけることにはなるが三の丸には早くつけるようだった。 「ついていくよ。先に行って」  自分よりもこの辺りに詳しい蒼蓮のほうが地の利を生かせると思い、稽人は指示した。蒼蓮は迷わずワッフルに足をかけた。 「おい、止まれ!」  登りながら下に目をやると、不審者は立ち上がろうとしていた。サンダルで全力疾走したから滑り止めが効かず、転んだのだろう。不幸中の幸いだった。 「やばい。どうすればいいんだよ、この状況。やっぱりこれを置いていくしかないのか」  三の丸まで戻ってきた蒼蓮は、ナップザックを肩から外しながら声を荒げた。 「待って。これは僕が持つ。その代わり、二手に分かれよう」  その手があったかと思ったのか、蒼蓮は歪だった顔を明るくさせた。木漏れ日に照らされて白い歯が際立って見えた。 「お前何も考えてないような顔して、いいこというじゃねぇか」 「僕はお前じゃなくて、稽人だよ。それよりどうする?」  管理会社へと続く稽人がやってきた道。二の丸へと続く道。本丸へと続く石垣が散乱した道。稽人が知らない森の中へと進む道。  蒼蓮は管理会社へ行ける道へ行くように、稽人に指示した。その後、彼はその内部を知っているのだろうか、森の奥へ続いている道を行くといい出した。 「俺が石を投げて、お尻叩いてあいつをおびき寄せる。だからお前は管理会社に逃げ込め」 「でも、無事に逃げられるの? 相手は大人だよ。捕まっちゃうよ」 「オフザボールの要領だな。簡単だよ。大人が嫌がりそうな所を潜っていけばいい」 「お前は早く行け」といって、蒼蓮は稽人の脆弱な体を押してきた 「絶対、無事でいてね」 蒼蓮に言葉通りの眼差しを向けた後、稽人は踵を上げてナップザック片手に、狂ったように下半身を回した。  門を何個も潜り、高低差のばらばらな段差を飛び降りて入り口に向かった。途中、右斜め後ろから、誰かが草木を激しくかぎ分けて進んでいるような音がしたが、気にしなかった。正確にいうと、振り向きたい好奇心を必死に抑えて、その余分な心を、ただ足を前に出すことだけに費やした。息を切らしながら、提げていたナップザックに目をやった。中にいるお地蔵さんと絵馬のことを考えると、より一層走る気力が湧いてきた。 遠くに管理会社が見えた。それは、漫画や映画で宝物なんかを見つけたときの、神々しい演出によく似ていた。実際に皓々としているわけではなかったが、管理会社以外のものが全く別世界のように感じた。地面は一色と化し、空は濁った色に、木々から垂れ下がる葉っぱは全て病葉に見えた。  畑中さんは、いつも立っている場所にいなかった。トイレにでも行っているのだろうか。走る勢いそのまま、稽人は管理会社の開き戸のノブを目一杯手前に引いた。 「――助けて、助けてください!」全力疾走をしたせいか、第一声が出なかった。 「鳥たちが騒ぎ出した原因は君か。そんなに急いでどうしたのかね」  素っ頓狂な顔をして、畑中さんが奥からやってきた。ハンカチで手を拭いているから、予想通りトイレに行っていたのだろう。 「落石から逃げて、お地蔵さんが壊れて、持って来ようとしたら不審者が出て」 「ちょっと落ち着いて。何をいっているのかさっぱり分らんよ」 「不審者です。友達が追われてる」 「不審者⁉ 追われている⁉ それは本当かね」 「とにかく、様子を見行ってあげて」 「ああ、別に構わんが」  恐らく、畑中さんは半ば信じ難いことを伝えられたと思ったのだろう。扉を遅く開ける動作が、それを表していた。絶好の位置で観察していた時に見たよりも、心なしか足取りが重い。 「不審者はどこだい?」  稽人が管理会社から出ると、畑中さんは反射板のついた服のチャックをゆっくり閉めていた。この人は危機感が全くないな、と稽人は汗を拭いながら思った。 「帰り道と書かれた案内板の近くです」  稽人が口を開くと、鼻の先を掻いていた畑中さん顔が強張った。 「君、無断で城跡に入ったのかい? いいか、この先は本来立ち入り禁止の場所で…」 「お~い、歴史オタク~」  やれやれ、という表情をしながら両手に腰を当てて、畑中さんが話出すと、後方から声がした。声の方向に目をやった稽人は、不意打ちを食らったボクサーのように目を剥いた。 「おはようございます。畑中さん」  森の中から、徐にステップを踏み鳴らした蒼蓮がやってきて、畑中さんに話しかけた。 「蒼蓮君。友達って、君のことだったのかい。」 「まぁ、一応」 「いいか二人とも、例え管理人の息子とその友達であっても、勝手に城跡に入っちゃ駄目だ」 「ごめんなさい。森の中で、こいつと追いかけっこをしていました。そしたら、耳障りな音が聞こえてきて。気になって、つい城跡の敷地内に入ってしまいました」  反省の顔色を浮かべている蒼蓮は、稽人の持つナップザックに視線を向けながら続けた。 「石垣が崩壊していて、お地蔵さんが倒れていたから助けてあげました。そのナップザックに入っています」 「石垣が崩壊⁉ それは後で見に行く必要があるな……。とにかく怪我がなくて何よりだよ。お地蔵さんは、事務所の端にでも置いていきなさい」  稽人はいわれた通りに、管理会社の端にあった花壇の横にお地蔵さんを置いた。手には絵馬を乗せておいた。 「それで、不審者っていうのは何のことだい?」  不審者というワードが、場の空気をピリッとしたものにした。稽人は下を向き、蒼蓮は稽人を見た。 「ええと。その」 「ごっこだよな」無下に蒼蓮が呟いた。苦笑しながら、小指でつむじ辺りを掻いている。 「俺たち鬼ごっこの鬼のことを、不審者って呼んでいるんです。なんか勘違いさせちゃったようで、すいません。はは」 「そんなことだろうと思ったよ。それならよかった。しかし大人をからかって、無断で城跡に入って、これがどれだけ重大なことか――」  その時、管理会社の中から電話音が聞こえてきた。稽人が扉をきっちり閉めていなかったから聞こえたのだろう。
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