部屋の中には

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部屋の中には

「ちょっと失礼」  片手をあげて、畑中さんは建物内に姿を消した。 「あいつはどこに行ったの?」 畑中さんの姿が見えなくなると、稽人はさっそく蒼蓮を問いただし始めた。その声のボリュームは、いつもより半音低い。 「もう巻いたよ。ここは俺の庭みたいな場所だぞ。あんな大して運動もしてないような大人なんか簡単に振り切れる。途中で振り向いたら、足を引っ掛けて顔面強打してやがった。笑えるだろ?」 「じゃあ、なんで嘘ついたの」 「だって不審者が本当にいたなんて、いってみろよ。面倒臭いぞ。捜索している間は、俺らはずっと監禁だろうな。それで見つかっても見つかんなくても取り調べが幾度となく繰り返される。取り調べって、異様なレベルで綿密に行われる。時間も精神も無駄に持っていかれることになる。たまったものじゃない。それに、このことが親父にバレたら面倒だからな。俺は今から、畑中さんを交渉しなくちゃならねぇ。このことは秘密にしてくれ、なんてな」  彼の説明のほとんどに一理あったので、稽人は次の言葉が出てこなかった。正確には、「でも」という言葉の先が思い浮かばなかったので飲み込んだ。 「蒼蓮君って、物知りだね」 「俺はここに残るから、お前は早く帰ったほうがいいよ。畑中さんは俺がいいくるめるから」 「分かった」稽人は彼の意見を尊重した。ここは関わりのある彼に任せたほうが賢明だと思った。 「ありがと。お前があの時『すぐに逃げよう』『二手に分かれよう』ってアドバイスくれたから助かった。俺が無事なのはお前のお陰だ」 「お礼をいうのはこっち側だよ」 「あ、そうだ。お前これ持っていけよ」  蒼蓮はお地蔵さんの手から絵馬を拝借すると、稽人に渡してきた。たしか蒼蓮はこの絵馬を大切にしていたはずだ。その矛盾に驚きを隠せない稽人は首を傾げた。 「これ、大事にしていたものじゃなかったの」 「もちろん。なんてったって、星愛未の直筆だからな」  星愛未とは二人と同じ年齢にして、既に子役界を牛耳るテレビスターだった。テレビドラマや歌番組に引っ張りダコでその顔を見ない日はなく、稽人の学校でも常に話題になっていた。そんな彼女が書いた物をなぜ彼は手放そうというのか。 「俺、星愛未の大ファンでさ。いつか会ってみたいなって思う。でもこの絵馬を懐に、彼女のことを想っているだけじゃ絶対に無理だ。俺は遠くで見守りたいとは思わない。実際に会いたい。だからどさくさに紛れてこれを俺が貰うのは違う。お前に預かっていて欲しい。これは俺らの友情の証だ」 「分かったよ。預かっとく」  蒼蓮の意志を汲んで、稽人は絵馬をポケットに入れた。彼のズボンの右側は歪な形になった。 「あのお地蔵さんには、また会いに来るよ。そのときにでも再開できたらいいね」 「おう。帰り、気を付けて」 「そっちこそ。お父さんにバレない様に」  駐輪所まで見送りに来てくれた蒼蓮に稽人は手を振って別れた。太陽は早朝の弱弱しい光と違って真っ赤に熟しており、彼らの後姿を照らしていた。  クラス替えとはひとえに人生においての分岐点である。新しく吹く風を、プラスから落としてしまうのか、それともマイナスからプラスの環境まで押し上げるのか。生活は、環境は、時間は、人生は、全て自分次第だ。  中学三年生になり、これから学業を営んでいくクラスの入り口に張られたクラス替え結果用紙に目を通した時、稽人の心臓は餌を欲する鯉のように跳ね上がった。 「あれから右肩の痛みはどうだ?」 「夜になって痛みは無くなったよ。もうブンブン回しても大丈夫だ」 「またいつか会おう、なんて映画やドラマのようなセリフをいって、それがまさか次の日とは――」 「びっくりだよ。蒼蓮君が亀山第二中学校だったなんて」 「半年前に転校してきたからな。廊下ですれ違っていたかもしれないけれど、目に留まらなかっただけかもしれないぜ」  頬杖をしながら話す蒼蓮を稽人は訝った。昨日から稽人は彼が醸し出す賢い雰囲気がどうも気になっていた。母親が大学の教授でもやっているのだろうか。 「はい、皆さんこんにちは」 「こんにちは」生徒のまばらな声は教室の壁や窓にぶつかる前に空中でなくなった。 「今日からこの六年六組の担任をします、南部です。みんな新クラス初日で緊張していると思うけど、先生も担任を持つのはこのクラスで二度目です。まだまだ未熟者なので、みんなで協力して良いクラスを創り上げていきましょう」  稽人は教卓の前で突っ伏している蒼蓮に目をやった。どうも彼は、目の前にいるショートカットの教師経験未熟な担任に興味がないらしい。人差し指で鉛筆をコロコロ転がす動作が、それを証明していた。  休み時間になると蒼蓮は晴れやかな顔で稽人の元にやってきた。 「昨日、あれから親父にバレないですんだよ」 「良かった。畑中さんも話の分かるいい人だね」  前の席の椅子を勝手に拝借した蒼蓮は、ずかずかとそれに座って稽人と向かい合わせになった。制服はクリーニングのタグが付きっぱなしだ。 「これ、付いていたよ」 「サンキュ。これ自分じゃなかなか気づかないよな。そんなことより、昨日のニュース見たか?」 「見たよ、不審者捕まったらしいね」  昨夜、稽人はテレビに映った映像を見て、家族がいる前にも関わらず味噌汁を噴き出してしまった。内容は園部町の大型スーパーにて万引きを行った不審者を逮捕した、というものだった。黒マスクをした彼は、「お金が欲しかった。人生がどうでも良くなった。手段は何でも良かった」と警察に供述したらしかった。 「僕らみたいな子供からなら、ノーリスクで犯罪が成功できると思っていたのだろうね」 「一見落着だな。これで百パーセント襲われる心配ももうないぜ」 「本当に人生がどうでも良くなったのなら、一から出直せばいいのになあ。今の時代なんてネットビジネスが盛んで、成り上がるチャンスは誰だってあるのにね」  稽人が話した後、数秒間が開いた。蒼蓮は机の角に目を据えていた。どうやら何か考え事をしているらしかった。下唇をぎゅっと前歯で潰して、何度か小さく頷いた。 もう授業始まるよ、と声をかけると蒼蓮は稽人の前に立った。 「お前、今日俺の家に遊びに来ないか? あっと驚くことを教えてやる」 窓から新鮮な風が吹いてきたと錯覚した。  新学期初日ということで、学校は午前中で終わった。稽人は家で昼ご飯のチャーハンを胃に流し込み、気を付けてねと喚起するお母さんの言葉を背に家を飛び出した。片手には学校で渡された簡易的な地図を握りしめていた。  伊豆家は大層なものだった。お屋敷、という言葉がそのまま当てはまるような敷地の広さで庭の駐車場にはランボルギーニがとまっていた。 「よく来た。早く上がってくれ」玄関のインターホンを鳴らした数十秒後に、蒼蓮が現れた。 蒼蓮は傾斜の緩い階段を素早く上がった。稽人はキョロキョロしながら後に続いた。 「蒼蓮君一人なの?」二階の廊下を歩きながら稽人は訊いた。家の中がやけにシーンとしていたのだ。 「親父は基本、家にはいない。先月まで二番目の兄貴がいたけど、働くと同時に一人暮らしを始めた」 「家族は他にはいないの」 「後で話すよ。さ、着いたぜ」  自分の部屋であろう場所の前についた蒼蓮は、思いっきりドアノブを下におろした。 「ここが蒼蓮君の部屋? 凄いね……」部屋に招かれた稽人は、まだ見たことのない光景に絶句した。九畳くらいある広い部屋の中で一番に目に飛び込んできたのは、左側にある机周りだった。ゲーミングチェアの前に三台のデスクトップパソコン、机の下は直方体のゲーム機のようなもので埋まっている。右に目を向けると、これまた謎のスペース。一つの座椅子と巨大な作業台のみだが、その作業台の上には用途が分からないものが乱雑に置かれていた。ボタン付きの細長い棒や針金、回路もある。A3のスケッチブックには【ブロッキング】とマジックで書かれ、その下には日程表や実験の成果のようなことが走り書きされていた。
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