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1話 執事とお嬢様
細い、針のような朝日がサァッと窓からさしこんだ。
するとベッドで眠っていた男が瞼を開ける。枕元に置かれた時計の針は早朝の5時であることを示していた。アラームの類は何一つ鳴っていない。男は身に染み込んだ習慣によって目を覚ましたのだ。
サイドテーブルに置かれた銀縁のメガネをかけると男はベッドから立ち上がる。そしてフッと視線を転じ、隣で佇む愛車へと目を向けた。朝日に照らされ鈍く輝くミディアムグレーの車体に思わず男の口元が綻ぶ。
なんと、この男ガーレジで車と共に寝泊まりをしているのだ。だが、ガレージと言っても設備は整っている。ベッドの他に洋服ダンスにソファー、テレビがありさらに洗面台までもがあった。さながら大人の秘密基地といった様子である。
ベッドから離れた男は洗面台で歯を磨き、顔を洗う。洋服ダンスからシャツとスーツを取り出し着替えると再び洗面台へ戻った。長い髪を後ろで揃え1本に縛ると鏡を覗きこむ。左右反転した世界に映る男の姿は若く、まるでギリシア彫刻のような冷たさと美しさを持っていた。
身だしなみを整えた男はガレージを出て裏手にある屋敷へ向かう。そこが彼の職場であった。この風変わりな男の仕事とは屋敷の主人の世話をすること。すなわち執事なのである。
赤井翔太、と言うのが男の名前である。職業は前述した通り執事だ。
翔太は今彼が仕える主人のため屋敷の台所に立ち朝食の準備を整えている。鮮やかな手つきで食材を刻み、パンにマスタードをたっぷり塗りつけていく。ほどなくして皿に美しく盛り付けられたサンドイッチが出来上がった。
食事の準備が整うと翔太は屋敷の階段を上がり主人が眠る部屋へと向かう。
「おはようございます、お嬢様。お食事の準備が整いました」
ドアをノックし話しかけるが応答はない。同じ文言を数度繰り返したが結果は同じであった。
「仕方ありませんね」
そういって翔太はスーツのポケットから携帯電話を取り出し何事か操作した。すると、
「みぎゃーーっ!!?」
部屋の中から素っ頓狂な声が上がりドタドタと足音が響き渡る。バタンと乱暴にドアが開かれパジャマ姿の美しい少女が姿を現す。
「おま……ホントふざけんなよ!!」
開口一番少女が言った。なぜかその顔は濡れており顎からはポタポタと雫がたれていた。
「おはようございます、迦阿子お嬢様」
翔太は少女、迦阿子に向かい慇懃に頭を下げる。
「いや、おはようじゃないっすよ!!何してくれたんっすか!!?つか、なんであたしが朝から顔に水をかぶらなきゃならないんっすか!!」
迦阿子の文句に翔太はしばし考え口を開く。
「戦中の話ですが捕虜への拷問として定期的に瞼へ水を垂らし眠りを妨げると言うものがあったそうです。それをヒントに愚行したところ、朝を苦手とされるお嬢様にお目覚めいただくには水を利用するのが最良と判断した次第です」
「はぁあああ?????いや、っていうかどうやってあたしに水を引っ掛けたんっすか?」
「昨日、お嬢様がご友人とお出かけをされている間に携帯で操作できる水かけ装置をお部屋の天井に設置させていただきました」
「なに悪意塗れのものを人の部屋に設置してくれてるんっすか!!」
「いえ、悪意などありませんよ。これはお嬢様が遅刻などされぬよう配慮した結果です。水も封をしたペットボトルの新鮮なものを使用してますし」
ああ言えばこう言う、どうも口で翔太に勝てる気が迦阿子には全くしなかった。
迦阿子はため息を吐き出すと自室の壁掛け時計を眺める。3度寝は諦めそろそろ学校へ向かう準備を始めなければならない時刻である。
「お食事の準備はできておりますので、お支度が整いましたら居間までお越しください」
悪びれる風もなくそう言って翔太は用意していたタオルを迦阿子に手渡した。
「後で覚えてろよ!」
タオルは素直に受け取ったが、それで恨みまでぬぐいとれるわけではない。迦阿子はキッと翔太を睨みつけるが当の本人はたじろぐ様子もなく深々と一礼し立ち去っていった。
「チキショウ」
可愛らしい顔に似合わぬ汚い呪詛の言葉を迦阿子は吐き出す。だが、すでに呪うべき相手は姿を消しており言葉は虚しく空に消えていった。
迦阿子が居間に入ると室内の暖められた空気が優しく彼女を出迎えた。
目覚ましがわりにぶっかけられた水は思ったほどの量ではなかったらしい。タオルで一拭きしただけで顔や前髪はすっかり乾いていた。だが、パジャマは少し濡れて気持ち悪かったので着替えた。そのついでに歯磨きや洗顔など身支度も済ませたので週の始めだと言うのに少し余裕を持って朝を迎えられそうである。
もっとも、だからといって拷問じみた方法で起こされた迦阿子が溜飲を下げることはなかったが。
「お支度は整いましたか、お嬢様?」
迦阿子が居間のテーブルに着くと翔太はそう言って一礼すると朝食を運んでくるためだろう、背を向けて台所の方へと歩いていく。その瞬間を見逃さず迦阿子は洗濯籠へ入れず持ってきていたタオルを翔太に向けて投げつける。
恨みはらさでおくべきか!
狙い違わず、丸められたタオルは吸い込まれるようにして翔太の後頭部へと飛んでいく。だが、タオルは直撃するより前、彼の手によって受け止められた。その際翔太は一度も後ろを振り向くことはなかった。
「いや、なんでっすか!??お前、後ろに目でもついってんっすか??」
「そのようなことはございませんが、気配を感じたもので」振り向いた翔太は手にしたタオルを器用に空で畳みながら答える。「執事たるもの主人の如何なる御用命にもお応えできるよう様々な技術を習得しているのですよ」
「……どーいう用事を言われた時にそんな化け物じみたスキルが必要になるんっすか?」
「備えあれば憂なしと申しまして」
ないのは憂いではなく常識の方だろう、と迦阿子は思ったが口には出さなかった。どうせ疲れる返答が返ってくるだけなので別のことを口にする。
「はぁ、そうっすか。ところで今日の朝ごはんはなんっすか?」
「サンドイッチとスープ、それにヨーグルトになります」
「スープ?」
「ええ、昨日良いキャベツが手に入りましたのでスープに仕立ててみました。旬のものですしお口に合うかと」
「ふーん」
別に旬だのなんだのを口うるさく言うほど迦阿子はグルメではない。それに翔太の作る料理は性格と違い問題のない味をしている。なので料理に難があるとは考えていない。だが、他に話題も思いつかなかったので、とりあえず聞いてみただけである。
そして翔太は今度こそ居間を後にする。一人きりになり手持ち無沙汰となった迦阿子はテーブルに着くとなんとなしにテレビのある方へ視線を向ける。テレビはついていて彼女のお気に入りの報道バラエティ番組が映し出されていた。
画面の中でお天気お姉さんが今日の天気は曇り空だと告げていた。なら傘はいらないっすね、と迦阿子がボンヤリ考えるうちに食事が並べられていた。
「いただきます」
きちんと合掌して迦阿子は言った。
まずはスープ。スプーンで黄金色したコンソメベースのスープを掬い一口啜る。
「〜〜っ!!」
瞬間、味蕾から身震いするほどの旨味を感じた。本当に美味いものを食べた時、人は言葉を発しない。ただ、ひたすらに食い物を口へ運び続けるだけだ。今の迦阿子がまさにそうである。
無心でスープを啜る。
その様子を翔太は微笑を浮かべながら見守る。
続いてサンドイッチを迦阿子は頬張る。トーストされたパンのサクサクした食感とキュウリのシャキシャキとした食感のハーモニーが楽しく、マスタードの酸味でマイルドにされた辛味がハムの塩気と共に口の中で踊っているような気がした。ただパンにハムと野菜を挟んだだけのものなのがどうしてこんなに?っと思うほど美味い。
これも夢中で食べ、あっという間に平らげる。
「ごちそうさまでした」
再び合掌しながら迦阿子はペコリと頭を下げる。そうしてから天を仰ぎ息を吐くと「ああ、幸せ」と呟いた。
「それはようございました」
ポットを手にした翔太がやってきて「紅茶をもう一杯いかがですか?」と尋ねてきた。
「うーん…」チラリと壁掛け時計を眺める。時間に余裕はありそうだ。「じゃ、もらうっす」
「かしこまりました」
カップに紅茶が注がれ、柔らかな香があたりに漂う。その香りを胸いっぱい吸い込むと迦阿子の頬に自然と笑みが溢れた。
執事はガレージから幸せを運ぶ。
フッと頭にそんな言葉が過った。まぁ、幸せだけでなく余計なものを運んでくることもあるが。それでもまるきり感謝をしていないわけでもない。
執事とお嬢様。二人暮らしの毎日はいつもこうして幕を開けるのだった。
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