10話 執事とコーヒー

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10話 執事とコーヒー

迦阿子の記憶にある自宅ガレージは体育倉庫を連想させる埃とかびのにおいが入り混じった場所であった。 陰気、とまでは言わないがそれでも無味乾燥とした決して居心地の良い場所ではなかった、はずだった。 「ふわぁ……」 思わず迦阿子の口から感嘆の声が漏れる。翔太がガレージを私室として使い始めて僅か二ヶ月足らず。その短い時間でガレージの様相一変していた。  コンクリート剥き出しの床はそのままだが室内に品のいい家具が配置してある。それだけなのにガレージはすっかり暖かみを感じさせる場所へとなっていたのだ。 全ては部屋の主が持つ美的センスのなせる技なのだが、それを一見で見抜くのは難しい。 迦阿子はまるで魔法に化かされたもののようにポカンと車内から室内を見渡す。 「どうぞ、お嬢様。お降りください」 「あっ……うっす」 翔太に促され迦阿子は車から降りる。瞬間、鼻腔をえもいわれぬ良い香りがほのくすぐる。ルームフレグランスだろうか。しかし、その正体がなんであるか迦阿子にはわからなかった。しかし部屋が非常に落ち着ける雰囲気であることは理解できた。 「ソファーでお待ちください。今何か飲み物をお持ちしますので」 そう言ってから翔太はいくつかの飲料の名前を口にした。全て迦阿子がお気に入りの清涼飲料水や炭酸水であった。しかし、それらの甘い飲料を翔太が普段から愛飲しているとは迦阿子には思えなかった。おそらく今日の事態を予測し冷蔵庫にストックしていたのだろう。 「そうっすね」ソファーにどかっと腰を下ろしながら迦阿子は思案する。何気なくフッと転じた視線の先に流しが飛び込んできた。その上にある棚にはコーヒーの抽出器具が美術のように美しく並べられていた。「あー、コーヒー、飲んでみたいっす」 気がつくとそう答えていた。せっかく気を利かせて自分の好みのドリンクお用意してくれていたのに悪いなっと思ったが口にした言葉はもう取り消せない。 だが、それは迦阿子の本音であった。この部屋の主が好む飲み物をこの部屋で飲んでみたい。 「かしこまりました」 だが、執事は主人の答えに落胆した様子も驚いた様子もなく答えると慣れた手つきでコーヒーの抽出準備を始める。それどころか「ミルクと砂糖はいかがいたしましょう?僕の知る限りお嬢様がコーヒーを召し上がってらっしゃるのを拝見したことがありません。もし、コーヒーをあまり嗜んでいらっしゃらないのでしたらミルクだけでも加えることをおすすめしましが?」と言った。 ブラック党の翔太の私室にミルクと砂糖が常備されているのも考えにくいことだ。ならば、自分がコーヒーを所望することも彼の想定内だったのだろう。 (これじゃまるで御釈迦様の手のひらにいる孫悟空みたいっすね) そう思い迦阿子は苦笑いする。 「じゃ、ミルクだけお願いするっす」 「かしこまりました」 室内にカリカリと言うミルが豆を砕く小気味良い音が響く。それが一瞬テレビの電源を入れようとした迦阿子の手を止めさせた。 これはこれでいい。 そう思い迦阿子はソファーに座り直すと静かに翔太がコーヒーを抽出する音を楽しむことにした。手元にあるカバンから文庫本を取り出して続きからページを繰る。 程なく部屋をコーヒーの芳醇な香りが充した。心地よい音と香りが読書への集中力を増してくれた気がした。コトリと言う小さな音に視線を上げると、テーブルの上には洒落たデザインのカップが置かれていた。 「お待たせいたしました。グアテマラ産のコーヒーです。ミルクに合うよう深煎りのものを使用いたしましたので、お口に合うかと存じます」 などと翔太はいうがコーヒーに疎い迦阿子にはちんぷんかんで彼の言葉はまるで呪文のように意味不明だと思ったがどうやら美味しいらしいということは理解できた。 「いただきます」 挨拶をしてからカップを手にして口をつける。 すると驚きがあった。 苦味はある。しかし、それは全くスッキリとしており少しも嫌なところのないものであった。無論ミルクを加えたことによりマイルドになっていることもあるが、それ以上にコーヒーそれ自体の味が極めて優れていると迦阿子は思った。 迦阿子がそう感じたのは豆が良いものを使っていること、そして抽出の技術が優れていることに起因する。コーヒーの味。それは良い豆を使えばよほどひどい抽出をしない限り素人でも美味いものに仕立てることはできる。だが、それ以上の味は相応の知識と技術が必要となる。例えばコーヒーをドリップした時、上層部にあるアクをカップに入らぬよう早めに抽出を切り上げる。それだけでもコーヒーの味は劇的に変わる。 翔太にはそれを知る知識があり、それ以上を実行できる技術があった。これはそういうことなのだ。 「美味しいものなんっすね。コーヒーって。あたしコーヒーはずっと苦くて飲みにくいものだと思ってたっす」 迦阿子の素直な感想に翔太は柔らかく微笑む。 「気に入っていただけたようで何よりでございます。これからは朝食にコーヒーをお出しししましょうか?」 「お願いするっす」 答えてから迦阿子は改めて室内を見渡した。すると本棚に飾られた一葉の写真に目が止まった。 写真の中では迦阿子の記憶にあるより少し若い祖母と整った顔をしているが目つきの悪い少年の二人が肩を並べ写っていた。 そのあまりにも現在と異なる印象に一瞬迦阿子は誰であるかわからなかったが、よくよく目鼻立ちを見てみれば少年の正体が赤井翔太であると理解し驚いた。 「ねぇ、翔太この写真って」 尋ねられて翔太は苦笑を浮かべる。 「ええ、椰依様と僕です」 「ああ、なんて言うか」 迦阿子が口籠るとそれを引き継ぐようにして翔太が口を開いた。 「どうしようもない悪ガキだったのですよ、僕は……人に言えないようなことも沢山してきました。椰依様はそんな僕を助け出してくれたのです」 そう言った翔太の瞳には懐かしさより後悔の色が濃く浮かんでいるように迦阿子には思えた。 彼の過去に何があったのか?尋ねれば答えてくれるだろうか? 疑問が迦阿子の胸のうちに渦巻いた。だが、その答えはでず。ただ、今はそれを聞く時でないとだけ思った。 好奇心だけで突き進むことが許されないこともある。信頼であるとか、覚悟。そんなものが必要な場合も世の中にはあるのだろう。 だから、迦阿子は違う言葉を口にする。 「ねぇ、翔太。あたしは翔太に感謝してるんっすよ?」 「え?」 「知ってると思うんっすけど。あたしもばあちゃんが死んじゃったとき悲しくて、落ち込んで、それでやさぐれててどうしようもない娘だったんだと思うんっす。でも、そんな時に翔太はあたしのとこに来てくれて支えてくれた。それがどれほど嬉しかったか!……昔のことは変えられないけど今の翔太はいいやつっすよ、それは間違いない、あたしが保証するっす」 「……ありがとうございます、お嬢様」 「いや、ありがとうはこっちのセリフっすよ……ありがとう、翔太」 そう言ってから迦阿子は照れ臭そうに笑うと翔太もまた笑った。そうしてしばし、二人で笑いあうと翔太は真面目な顔をして言った。 「いつか、僕の懺悔を聞いていただいてもよろしいでしょうか?」 「もちろん、翔太が話したくなったらいちでもあたしは聞くっすよ」 「ありがとうございます」 急ぐ必要などない。きっとこうして少しづつ二人の距離は近くなっているのだから。そう思い迦阿子はコーヒーを一口啜った。 口内に苦味が広がる。だけど、その苦味はやはり心地が良く。迦阿子は自分が少し大人になれたような気がした。
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