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5話 執事と夜更かし
ある日の深夜である。
「うぉおおお、寝れねぇっすよ!」
烏丸迦阿子はそう叫び自室のベッドの上で跳ね起きた。
頭をボリボリと掻き、ため息を吐く。明日は休みと風呂上がりに長編漫画の一巻を手に取ったのがケチのつけ始めだったと後悔する。すっかり夢中になって読み耽り全巻読破してしまったのだ。おかげで現在頭は完全覚醒。眠気は微塵も、ない。それでも部屋の灯りを消してベッドの上でゴロゴロしてみたものの結果はご覧の通り、30分ほど無駄にしただけだった。
「これはダメっすねぇ」
諦め部屋の灯りをつけベッドから降りる。台所で冷たい水でも飲めば頭がシャッキリするかと思ったのだ。
眠りたいのに頭をさらに目覚めさせてどうする?と言う気もしないではないが、一旦気分を変えたほうがよいのも事実だろう。
ため息を吐き出し部屋を出た迦阿子はトントンと階段を降りる。台所を目指し廊下を歩いているとギシっと背後の床が軋む音が聞こえた。驚き振り向くと、そこに長身痩躯の男が立っていた。
「こんな夜更けにどうかされましたか、お嬢様?」
男、この屋敷に住み込みで働いている執事の赤井翔太が言った。風呂上がりなのだろう頬がわずかに上気している。そして迦阿子が初めて見るパジャマ姿であった。
「あ、いや、ちょっと喉が渇いて台所で水でも飲もうかと思って」
別に怒られることはないだろが、迦阿子は言い訳じみた言葉を口にした。それは幼い頃夜更かしがバレ亡き祖母に怒られた苦いような、懐かしいような記憶のせいだろう。
「左様でございますか。では、よろしければ何かお飲み物をご用意致しましょうか?」
翔太の提案に迦阿子は思案する。さすがに完全オフな格好をした執事に仕事を頼むのはどうかと思ったからだ。
「あ、えっと」
口籠もる主人の姿を見て翔太は口元をわずかに綻ばせる。
「ところで話は変わりますがお嬢様」
「なんっすか?」
「本日は妙な塩梅でして、いつも僕はお風呂から出るとすぐ眠気が襲ってくる質なのですが、今日はそれが全くこないのですよ」
「は、はぁ?」
本当に話がガラリと変わり意味がわからず迦阿子は目をパチクリさせる。
「ですから、お茶でも飲みながら眠気がくるのを待っていようかと思うのです。そこでお嬢様......よろしければ僕の話し相手になっていただけませんか?」
こいつは!と思った。迦阿子が目が冴え眠れぬことも、就寝前と思しき翔太に遠慮していることも全て見越しこんな提案をしてきたのだろう。その察しの良さにはもはや笑うしかない。
「そうっすね、そういうことなら付き合うっすよ。ついでにあたしの紅茶も頼んでいい?」
「ええ、もちろんでございます」
そう言って柔らかく微笑む翔太の顔を見ていると迦阿子の中に『このままこいつの思い通りになっていいのか?いや、よくない!』という無駄な反骨精神がムラムラ湧き上がってくる。そこで迦阿子は反撃を試みる。
「それにしてもお茶だけ飲むのも味気ないっすよねぇ?……実はちょうどあたしの部屋にお菓子があるんっすよ。それもパーティーサイズのポテチが」
ニヤリと迦阿子の顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。そうして翔太の顔を伺いみる。深夜のポテチ。この背徳的な提案にどう反応する?だが、迦阿子の期待に反し翔太は穏やかな笑みを浮かべたまま返答する。
「それはようございますね。ですが、お嬢様。お茶請けに塩辛いポテトだけ、とおっしゃるのは少々バランスに欠けるのでは無いかと存じます」
「バランス?」
「ええ、ですから僕は……それに買い置きしておいたケーキも一緒に召し上がることを提案させていただきます」
「お、お前…」
迦阿子の目が驚愕で見開かれる。ポテチとケーキ、甘いと辛いの取り合わせなど背徳を通り越しもはや自殺行為に近い。いや、実際そのようなことを行なってしまっては死んでしまうだろう、迦阿子の乙女としての矜持が。
「まぁ、もちろん」翔太は苦笑いを浮かべる。「毎晩このようなことをされてはお嬢様の健康を害してしまうことになるのでしょうが、たまには良いではありませんか?大丈夫ですよ、今日一日くらい不摂生を行ったとしても」
それは悪魔の提案に等しき甘美な誘いであった。しかし、そのような甘言に惑わされてはならない。神は人に乗り越えられる試練しか与えないのだ。迦阿子はごくりと喉を鳴らすと口を開く。
「い、いいんっすか!?」
あっさり惑わされていた。神は人が乗り越えられない試練をわりとカジュアルな感覚で与える、のかもしれない。
「はい。ですから、お嬢様はお部屋からポテトをお持ちください。その間に僕はお茶の準備とケーキを用意いたしますますので」
「ふぉおおおおお!」興奮した迦阿子はその場でダンダンと足を踏み鳴らす。「い、今更『嘘でした〜』とかなしっすよ!絶対、絶対、居間でパーティーの準備しててよね!」
いつから眠気が来るまで二人で談笑すると言う話がパーティーに切り替わったのか謎である。翔太は迦阿子の言葉に苦笑を浮かべ口を開く。
「ええ、きちんと準備させていただきますよ。ですから、お嬢様も安心してご準備をなさってください」
「よっしゃ!すぐ戻ってきますからね!」
そう言って迦阿子はバタバタと足音を響かせながら階段を登り自室へと戻っていった。その姿が見えなくなると翔太は自分も準備を整えるため台所へ向かおうとする、と。
「ちょっ!そういえば居間のテーブル!真ん中は開けておいて欲しいっす!」
部屋へ戻る途中で言い忘れたことがあるのを思い出したのだろう。迦阿子は階段からヒョイっと顔だけ覗かせ言った。
「はい、それは構いませんが。どうされたのです?」
翔太の問いに迦阿子はニヒヒとイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「ボドゲっすよ、ボドゲ!お菓子食べてお茶飲んで話してるだけなんて勿体無いじゃないっすか?だ、か、ら!ボードゲームやって今夜はとことん楽しもうって計画なんっす!たしかあたしの部屋に昔買ってもらったボードゲームがあるはずっすから」
「それは楽しみでございますね」
「でしょ?まぁ、そーいうわけだからボドゲが置けるよういい感じにテーブルにケーキとお茶を並べておいてね」
言いたいことだけ言うと迦阿子は再びドタドタと階段を上がっていく。
今度こそにぎやかな主人が部屋に戻ったのを確認すると翔太は息を吐き「やれやれ、今夜は徹夜になりそうですね」と呟いた。そして台所へ向かうため階段に背を向けると歩き出す。だが、その足取りは軽くまるで舞を舞っているかのようだった。
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