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8話 執事と迷子
幼い娘がキョロキョロと辺りを伺っている。
歳のころは五、六歳ほどだろうか。大福のようなフクフクとした頬を持った愛くるしい幼子である。しかし今その顔は不安で暗く曇り、夕暮れのショッピングモールを一人彷徨っていた。
迷子であろう。それは誰の目にも明らかなことであった。このような時大人は存外子供に声をかけぬものだ。見て見ぬふりをする。
『誰かが声をかけるだろう』と思う。しかし、その『誰か』は決して自分でない他人なのだ。好んで面倒ごとに首を突っ込む物好きなどいないということだろう。だが、それでもこの世には物好きなお節介がいるものである。例えば、この男のように。
「どうかされましたか、お嬢さん?」
言葉とともに娘の前にふわりと大きな影が舞い降りた。その瞬間、心を落ち着かせるような甘い香りが娘の鼻腔をくすぐった。男のつけているコロンの香りだろう。匂いに釣られるようにして娘が視線をあげると、そこには雪の精のように美しくも冷たい容貌をした男が屈んでいた。
「えっと、おにいさんだれ?」
怯えたような様子の娘に男は微笑む。すると雰囲気が一変した。例えるなら春の日の風が吹いたような、そんな全てを暖かく包み込む、柔らかな印象へと変わったのだ。
「申し遅れました。僕は赤井翔太と申します。あなたのお名前は?」
「えっと、わたしは柚子だよ」
娘、柚子は素直にそう答えた。
「良いお名前ですね。さて、柚子さん、どうなされました?見たところお父様もお母様もいらっしゃらないようですが、逸れてしまわれたのですか?」
「う、うん。お母さんといっしょに来たのに、いなくなっちゃたの……」
母と逸れた不安を思い出したのだろうか、あるいは翔太という大人に出会い気が緩んだのか、気丈に堪えていた柚子の瞳に大粒の涙が浮かぶ。
「左様でございますか。わかりました、それでは僕が柚子さんと一緒にお母様をお探ししますよ。だから、大丈夫です」
「ほんとうに!?」
目を輝かせ柚子が言った。
「ええ」
安心させるためだろう翔太はそう答えると優しく柚子の頭を撫でた。
普通、子供といえど見知らぬ大人にそうされたら嫌悪感とまではいかなくとも警戒心くらいは抱くものだ。だが、翔太に頭を撫でられた柚子はまるで陽だまりでまどろむ猫のように気持ちよさそうに目を細める。そこに嫌がる気配は微塵もない。
昔から翔太には不思議とこうして人の心に入り込む才があった。一種のカリスマだろう。
「では、お母様を探しましょうか。柚子さんも辺りをよく見ていてくださいね」
そう言うと翔太は立ち上がり辺りを見渡す。無論、翔太は柚子の母の顔など知りはしない。
しかし、目星をつけることはできる。柚子は幼い子供。ゆえに一人でそれほど遠くまで行けはしないだろう。つまり、母親は別フロアでなく同じ階のフロアにいると考えるのが自然だ。さらに母親の方もそろそろ娘がいなくなっていることに気づき探し始めていてもおかしくはない。ならば、翔太はこのフロア内で辺りをキョロキョロ見渡す女性を探せば良いのである。おそらくそれが柚子の母親だ。
翔太の身長は180をいくつか超えたほど。周りから頭半分ほど抜けている。しかし、地方都市とはいえ休日のショッピングモールである。人の数はなかなかに多い。その程度のアドバンテージでは視界良好とまではいかない。だが、視野の広い翔太にはそれで十分であった。
程なくして、辺りを必死に見渡し足早に歩く女性を見つけ出した。さらにその女性を観察すれば目鼻立ちに柚子と似たものを確認することができた。
彼女で間違いないだろう。
「柚子さん、お母様を見つけましたよ」
「ほんとう!?」
「ええ、本当ですよ。では、参りましょうか」
そう言って翔太は大きな手を柚子に差し出す。人混みで逸れないようにとの配慮からだ。
「うん!」
柚子は頷くと迷うことなく翔太の手をギュッと掴んだ。翔太は逸れぬようしっかりとその手を繋ぐと柚子の歩幅に合わせゆっくり歩き女性の元を目指す。
「おかあさん!」
女性の近くに来ると柚子はそう叫び、翔太の手を離し駆け出した。
「柚子!あなた今までどこに行っていたの!?心配したんだから!」
顔に安堵の表情を浮かべた女性は駆け寄ってきた柚子をしっかり抱きしめ言った。やはり彼女が柚子の母親であったようだ。
「ごめんなさい!」
素直に謝る愛娘を母親は強く抱きしめ頭を撫でる。そうしながら翔太に向かい言った。
「あの、娘を連れてきてくださってありがとうございます。本当になんとお礼を言っていいか」
「どうぞ、お気になさらず」母親にそう言ってから翔太は柚子に顔を向け。「柚子さん、それでは僕はこれにて失礼いたします」と別れの挨拶を告げた。すると柚子は翔太の元へ駆け寄り足にギュッとしがみついた。
「柚子…...」
娘の様子に母は驚く。やや内向的な性格の柚子が初対面の大人にここまで懐いてる姿を初めてみたからだ。
「柚子さん」
幼な子の頭を撫でてから翔太は優しくその身を剥がす。そして柚子の視線に合わせるため身をかがめると語り出す。
「柚子さんの帰りをお母様がお待ちしているように、僕にも僕の帰りを待ってくださっている方がいるのです」
「……帰っちゃたらもう会えない?」
「お約束はできません……できませんが、僕も柚子さんに再びお会いしたく存じます」
「ほんとう?」
「はい。ですから、僕のこと忘れずにいてくださいますか?僕も柚子さんのことを絶対に忘れたりしません。お互いが忘れずにいれば、きっとまたお会いする機会もありますしょう」
「だったら!わたしぜったい、ぜったいおにいちゃんのこと忘れないよ!だって、またおにいちゃんと会いたいもん!」
そうして二人は互いに笑顔を向けた。
「では柚子さん、今度こそ僕は失礼させていただきます」
立ち上がった翔太を見て柚子は何かをグッと堪えたような表情を見せてから口を開く。
「おにいちゃん……ありがとう!」
気丈な柚子へ向け翔太は周りの人々が足をとめ見惚れるほど優美な仕草で頭を下げる。
「どういたしまして……ご機嫌よう、柚子さん。お達者で」
そう言ってから人混みの中へ紛れていく翔太の大きな背中を柚子はずっと見送っていた。
翔太が待ち合わせ場所にたどり着くとベンチに腰を下ろし携帯を弄る烏丸迦阿子の姿があった。
「おりょ、珍しく遅かったっすね翔太」
別行動をし先に待ち合わせ場所に来ていた迦阿子は携帯から視線をあげ言った。
「お待たせして申し訳ありません、お嬢様」
丁寧に頭を下げる執事に迦阿子は手を振ってみせる。謝罪などいらないという意味だ。
「いや、あたしも今来たとこっすから別にいいっすよ。にしても、こんなに店をウロウロしてるなんて何かいいものでも見つけたんっすか?」
「買い物は予定通り済んだのですが、少々迷い子のお世話をさせていただいておりまして」
「迷子?はぁ……いや、ホントお前って面倒見いいっすよね。で、親は見つかったんっすか?」
迦阿子は目を丸くしながらそう言った。
「はい、すぐ近くに親御さんが居られましたので送り届けて差し上げました」
「そっか、ならよかった」
迦阿子はニパっと笑いピョンとベンチから立ち上がる。
「では、そんなお前にはあたしがジュースを奢ってしんぜよう」
「……はい?」
珍しいことに翔太がキョトンとした表情を浮かべる。それがよほど面白かったのか迦阿子はケラケラと笑う。
「ほれほれ、いいからそこにある自販機から好きなの選びんさいって」
「い、いえ、お嬢様をお待たせしてしまったのに、そのようなことをしていただくわけには……」
そう言いかけた翔太の言葉を遮るように迦阿子はビシッと人差し指を向け言った。
「いーや『していただいて』いいんっすよ!だって、翔太は良いことをしたんっすから、それを主人のあたしが褒めるのは当然じゃないっすか?優しい人間は報われるべきなんっすよ!」
その言葉を聞いた瞬間の翔太の表情を迦阿子は忘れることができないだろう。泣き出しそうな、それでいって安心したかのような。まるで、母と逸れた子供がようやく巡り会えた時のような、そんな顔を彼はしていたのである。
「翔太……?」
驚き迦阿子は思わず執事の名を口にする。
「申し訳ございません、ただ昔同じことをある方が仰ってらしたのを思い出しまして」
「ある方?」
「ええ、迦阿子様のお祖母様であらせられる椰依様です」
思いがけぬ人物の名に迦阿子は目を見開く。しかし、その表情はすぐに嬉しそうな笑みに塗り替えられる。
「そっか、ばあちゃんもあたしと同じこと言ってたんっすか。なら、余計にお前はあたしの言うことに逆らえないっすね。だって、これはあたしとばあちゃんからの命令なんっすから!つーわけで......ほら、早くジュースを選んでよ!」
そう言った迦阿子の横顔から翔太は確かに彼女の祖母、椰依の面影を見出した。
「それではお言葉に甘えさせていただきます……ので、お嬢様!背中を押さないでください。危のうございます」
苦笑いを浮かべながら抗議の声を上げる翔太の背中を「いーから、いーから!」と言って迦阿子は押し続けた。二人の口からは知らず楽しげな笑い声が漏れていた。
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