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9話 執事と居酒屋
毎年七月。迦阿子たちが住む町、逢沢市市では夏祭りが開催される。と言っても大層な謂れのある祭りでなく、地元商工会によるささやかな祭りであるが。
その打ち合わせに迦阿子が出席する運びになったのは『若者の意見を取り入れた新しい祭りの作りのため』らしいのだったが……
「どわっはっはっ」
会場にオトナたちの笑い声がこだまする。全員顔がほの赤い。酔っているのだ。まぁ、場所が居酒屋なので少々騒いでも、酔っていても問題はないのではあるが、打ち合わせの会場が居酒屋であることは問題視すべきかもしれない。なにせ打ち合わせ後に来たわけでなく、最初から居酒屋に集まる段取りになっていたのだから。これではただの飲み会である。祭りまで後二か月をきっていると言うのに呑気な連中である。
「ったく、なーにやってんっすかね?」
そんなオトナたちに冷ややかな視線を向けながら迦阿子はチビりとグラスを傾ける。無論中身はノンアルコールドリンクである。
元々、迦阿子は意見を言うにしてもあまり出しゃばり過ぎないようしようと思っていた。だが、これでは控えめな意見すら言えるか、いや、言えるだろうが彼らの記憶に残るか怪しいものである。
なので『もしかしておじさんたちは自分たちだけで飲んでも楽しくないから祭りを理由に若い娘の自分を呼んだんっすか?なら、セクハラじゃん!』などと迦阿子は穿った見方をしてしまう。
しかし、実際は最近祖母を亡くし落ち込んでいるだろう迦阿子を励ますため中年男たちは今日の食事会を催したわけであるが。ここにいる連中、皆若い頃に迦阿子の祖母烏丸椰依の世話になっているのだ。だから迦阿子のことも昔からよく知る、気のいい連中なのである。もっとも祭りの話し合いを最初からやる気がない、と言う点では彼女の推理は正しかったりするが。
「迦阿子ちゃん、全然食べてないじゃないか。?ほら、どんどん好きなの頼みな。おっちゃんたちが奢ってやるから!」
中年男の1人がそう言った。すると迦阿子の頬に小悪魔めいた笑みが浮かぶ。そして彼女は元気よく手を上げ「すいません、店長!大トロ三昧刺身盛り追加でお願いするっす!」と店で一番高い料理を注文した。
好きなものを頼めと言った中年男はそれを聞いて蒼くなり、迦阿子はペロリと舌をだした。
「はっはっは、好きなの頼めって言ったのはお前なんだから払いは頼んだぞ」
青い顔をした中年を別の男が囃し立てる。
「えっ!?そこだけ俺一人!?いや、割り勘でしょ!」
「ゴチになります!」
「いや、いや、いや、勘弁してよ。母ちゃんにドヤされちまう」
情け無い声を上げるお調子者にみんなはドッと笑い声をあげる。その中には迦阿子も当然含まれていた。なんだかんだ言ってこの場を楽しんでいるのだった。
(お祭り……楽しみっすね)
そんなことを思っていた。
宴もたけなわ夜8時。帰るに早い時間だが迦阿子は一足先に居酒屋を後にすることとなった。未成年の娘をあまり遅い時間まで連れ回すべきでないと言う男たちの配慮によるものだ。
「じゃあ、嬢ちゃん。気をつけて帰れよ」
そう言って送り出してくれた赤ら顔の中年男たちに手を振り店を出る。すると、いつから待っていたのか赤井翔太が店の出口に立っていた。
「お疲れ様です、お嬢様」
「ん、ありがと」
簡単な挨拶をしてから2人で駐車場へ向かう。そしていつも通り、翔太に扉を開けてもらい迦阿子は車へ乗り込み発進する。
まさにいつも通りの手順であるのに迦阿子は違和感を覚えた。
(翔太……少し焦ってる?)
そう思った。それは多分些細なことだ。扉を閉めるタイミングか、あるいはアクセルの踏み込みか、それが僅かに早い。その程度の違いである。だが、それはたしかにいつもの彼のリズムではなかった。
「ねぇ、翔太。どうかしたんっすか?」
問いかけると執事は困ったように小さく息を吐いた。
「申し訳ございません、お嬢様。間に合いませんでした」
最初、翔太が何を謝っているか迦阿子は理解出来なかった。しかし、すぐにその意味を知ることとなった。
雨粒がポツポツフロントガラスを叩き始めたのだ。なるほど、雨の気配を察知する特技を持つ翔太は自分を濡らさぬよう降り出す前に帰りたかったのか、と迦阿子は思った。
「いや、別にいいっすよ、これくらい」
と、迦阿子が言った瞬間だ。
ドザァアアア……
バケツをひっくり返したかのような土砂降りになる。その勢いは凄まじく、車体を叩く雨粒の音はカーステレオでも誤魔化しきれず、フロントガラスに流れる大量の雨はワイパーを持ってしても視界を確保するのが困難なほどになっていった。
「うひゃあっ!」
あまりの勢いに迦阿子驚き悲鳴をあげる。
「これはいけませんね」
言葉とは裏腹に落ち着き払った声で言う翔太に迦阿子は(なんだかなぁ)と思いながら頷く。だが実際、雨はかなりひどいものであった。もし一歩でも車の外へ出たらずぶ濡れになってしまいそうである。
(おっちゃんたち大丈夫っすかね)
フッと迦阿子は居酒屋に残った男たちのことが心配になった。もっともひどい雨ではあるが台風でもないので店を飛ばされる恐れはないが、帰りもこの調子では濡れて風邪をひきかねない。
「大丈夫ですよ」
「えっ!?」
「雨がこのまま降り続くことはありません……そうですね。30分から長くて1時間程度でやむかと存じます」
まるで、主人の心を読んだかのように執事が言った。真意のほどはわからないが、迦阿子は翔太の言葉にホッと息を吐いた。
「なら、安心っすね……あー、でも、あたしたちが家に着く頃はまだ雨降ってるってことっすか?」
辺りは雨で煙り様子がわかりにくくなっているものの迦阿子にしたら住み慣れた町のことである。ここが家の近くで後五分ほどで屋敷にたどり着くことくらいだとすぐ理解できた。
「そうなりますね」言って翔太はわずかに眉根を寄せ、考える。「お嬢様、正門からお屋敷に戻られては濡れてお風邪を召してしまうやもしれません。如何でしょう?むさ苦しいところではありますが、ガレージで雨宿りされていかれては?」と提案してきた。
なるほど、と迦阿子は思った。ガレージが翔太の私室となってからは遠慮をして出来るだけ足を踏み入れないようしていたが、今回はそうも言っていられない。あまりに雨がひどすぎるのだ。
「いいんっすか?」
主人の問いに翔太は柔らかな笑みを浮かべ頷く。
「ええ、ようございますよ」
「んじゃ、お願いするっす」
そう答えてから迦阿子はチラリ翔太の横顔を盗み見て感情を読み取ろうとする。だが、彫刻のように優れて美しい、だが無表情な執事の顔からはなんの感情も読み取ることができず試みは徒労に終わった。
よく、わからないヤツ。
そう思い迦阿子は息を吐く。共に暮らすようになってしばらく経つが、それでも迦阿子にとって赤井翔太は変わらず謎めいた男なのだ。
だからこそ。
その男の部屋を覗ける機会が巡って来たことに胸が踊るのだ。この謎めいた男の素顔。その一端を知ることができる、と言うのは大袈裟にすぎるかもしれないが迦阿子からすればまさにそのような心境であった。
(はしたないことっすけどね)
などと思いながらも迦阿子は胸の高鳴りを抑えることができなかった。今は降りしきる雨に感謝すらしたい心地であった。
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