4.カスミソウ

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 惺は溜め息を小さく吐いてそれを元の場所に戻すと、病室のバスルームへと向かい、洗面台の蛇口を捻ってバシャバシャと冷たい水で顔をかけた。  冷たい水がぐるぐると回り続ける思考を落ちつかせてくれたらどんなに良いだろう。  初めて『カスミ』と呼んだ翌朝、霞月は惺の元から消え去っていた。  ずっと『オトコ』に成り下がった惺といるのが嫌で消えたものだと思っていたが、もしかしたら『カスミ』と呼ばれることが苦しくて居なくなったのかもしれない。  彼女自身が語ることをやめてしまった兄の存在。その彼の名前で呼ばれていた彼女は、今日までどんな痛みを味わっていたのだろう。 「……くそ」  一年半も一緒にいて知らないことが有り過ぎる事実に腹が立つ。  何でも分かった気になって、何も知らなかった。  大切に大切に愛してきた彼女の一番痛い傷を、知らず知らずのうちに抉り続けてきていた、そう思うと硬く握った掌に爪を食い込ませずにいられなかった。  彼女を救いたいと願ってきたこの一年。  ――俺は本当に霞月を明るい場所へと導けていたのだろうか……?  ずっと空回りしてその場で足踏みをしていただけかもしれない、そんな考えが脳裏を過ぎり鏡越しの己を睨むと、その顔はやたら疲れた顔をしていた。  疲労が精神を蝕んでいく――。  昨日の朝、アパートで霞月と何気ない話をしながら食べた朝食はまるで遠い日の出来事のようだ。  惺を見つめて「いってらっしゃい」と微笑んだその瞳は、自分を映しながら何を思っていたのだろうか?  彼女が失ってしまった沢山の人と愛情。  その重さを知った今、彼女が失ったものは修復できるものでも、自分が埋められるようなものでもないと自覚してしまった。  ならば、彼女が必要としているものは何なのだろうか?  写真に映るような目を細めたくなるほどの眩しい笑顔を飽きるほど彼女が浮かべる、そんな日は本当に来るのだろうか――?
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