92人が本棚に入れています
本棚に追加
/478ページ
「最初はびっくりしたけど、私がそれでいいと思ったから否定しなかったんだよ」
言葉を選ぶように少し間を置くと、彼女は目を伏せながらその指にキュッと力を入れる。
「……けど、惺に香純の歌声が聞こえたらいいのにっていつも思ってた」
涙の跡の残る頬を惺は反対の手でそっと拭う。
睫毛についた滴が光を反射してキラキラ光っている。
「『私のお気に入り』は香純が一番好きな曲なの。惺がサックス吹いてると香純の声が共鳴して聞こえて、それが綺麗で――」
ハッと彼女を見つめ返した。
彼女がよくプレイリストに入れていた『私のお気に入り』は、自分で入れてくるくせに決して三人で演奏する事の無かった曲。
「なんでいないんだろう、ってずっと思ってた」
――俺のサックスの音の向こう側に香純を探していた……?
「……だから俺とやりたくなかった?」
弾かれたように霞月が顔を上げる。
目を瞠りながらじっと惺を見つめた彼女の顔に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「――私ね、耳を澄ませると香純の歌声がいつも聞こえるの。柔らかくて、凛としてて、透き通った歌声。でも、ピアノ弾き始めると何も聞こえなくなるの。あんなに一緒にやってたのに、もう頭の中でも一緒にできない」
バラ色の唇に当てられた歯がぐっと食い込む。
――だから、か……。
指先で色を変える唇をなぞり、重ねた手を親指でゆっくりと摩った。
ピアノを弾き始めると聞こえなくなってしまう香純の歌声。それでも一緒に出来る事を夢見たからこそ、自分がステージを降りることで、香純の歌声と自分のピアノを惺たちの演奏に重ねてさせていたに違いない。
菊池は『双子みたい』に仲が良かった、と彼らを比喩していた。
いつか彼女が佐倉とやった『私のお気に入り』。
あの全てを打ち付けるようなあの演奏は、もう一緒に音を紡ぐことの出来ない自分の半身のような兄への精一杯の想いが込められていたのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!