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「そんなに妖力を集めてどうするつもり?」
情事の後の心地良い気怠さを抱えて、布団の上に寝転がると、当たり前のように、沙和が腕の中に滑り込む。
「あの男に仕返しするに決まってるじゃない。散々弄んでから、地獄の底に落としてやるの。
あの男は言ったのよ、君と僕じゃ身分が違うんだ。だから、夫婦になんてなれるわけがないんだよ。あぁ、君は馬鹿だから本気になっちゃったんだね。本当に馬鹿だな、君は、って。
それでも別れたくないと縋ったら、近くにあった衣桁で殴られたわ。頭が切れて、血が出た、たくさん。私の顔が血まみれになっていくのを見て、あの男は蒼い顔をして逃げ帰って行ったの。
憎しみと怒りで体が震えたわ。傷が治っても、顔についた血の染みは消えなかった。それが、あの痣よ。あの男の許嫁にも、同じ痣をつけてあげるの。あの男は私のことを思い出して、きっと恐怖に慄くわ」
「沙和は怖い女だね。璦百はそんなこと、考えもしないだろうな」
「璦百様はお優しい人だから、私とは違うの。比べられても、同じにはなれないわ。ねぇ、私が怖い女だから、好きになってくれないの?」
「沙和のことも好きだよ。でも、璦百とは少し違う。沙和と僕は似てるけど、璦百と僕は少しも似ていないんだ。璦百は僕が汚してもいい存在じゃないんだ。分かってるんだ本当は……。でも、そばにいたいんだ。そばにいたら、変われるような気がするから。でも、もう無理かも。嫌われちゃったんだ、僕」
何も変わっていない風を装って、優しい眼差しで見つめられる度、あの日、璦百に手を差し出したことは間違いだったのではないかと、後悔の念に苛まれる。ただただ、あの地獄のような日々から抜け出したかった。その為に、璦百を利用した。最初から愛されるわけなどなかったのだ。心が痛みを発し、赤い雫を垂らしただけだった。
じゃあ、どうしたら良かったのだろうか。考えても、考えても、答えは見つからない。あんなに無邪気に抱きしめ合っていた璦百は、疵音の腕の中で体を強張らせるようになってしまった。
そもそも、何がいけなかった?
どこで間違えた?
一体、誰が悪いんだ?
あぁ——あの人だ。
璦百は深く、深く眠っている。それを確認して、屋敷を出た。行き先は、生まれ育ったあの場所だ。何が、神の使いだ。糞喰らえ。
住み慣れたとは言い難い実家の敷居を跨いだ時、懐かしさだとか、哀愁だとか、そういったものは少しも感じなかった。むしろ、回想する悍ましい記憶に、吐き気がした。
父親の部屋の場所は変わっていなかった。了解も得ず、勝手に襖を開けると、相変わらず、この屋敷の主人は自分で、自分以外の者は大したことがないのだと言わんばかりの太々しさで、何やら書物を読んでいた。
「疵音……疵音なのか?」
久し振りに愛息子と再会したように、軽々しく名を呼ぶ父親に「そうですよ」と答えると「立派になったな」などと白々しいことを言われた。どうやら、この頭の悪い男は、自分の息子に『疵音』と名付け、酷い仕打ちをしていたことを、すっかり忘れてしまったようだ。懐かしさからなのか、口元を緩めた姿に、反吐が出る。
「全ては父上のおかげですよ」
心にもないことを言って笑って見せると、父親は満更でもない顔をして頷いた。あぁ、吐き気がする。
父親を一思いに消し去った時、沙和は歓喜の声を上げ、疵音の腕にしがみついた。
「凄い、疵音。とっても強くなってる。お父様はもうこの世にはいないわ。縛られていた記憶から、少しは心が解放された?」
そう問われても、正直分からなかった。
「どうかな。これといって、何かが変わった様な気はしないよ。結局、父上が生きていようが、生きていまいが、今の僕には何の関係もなかったってことか……。無駄足だったね」
沙和と共に実家を後にする時、疵音が殴られようが、蹴られようが、一度も助けてくれなかった母親が、穢らわしいモノでも見るような目で、こちらを見ていた。愛されていただなんて、それこそ一度も感じたことはなかったけれど、あぁ、やはりそうだったのかと妙に納得した。母親はいまわの際に、何かを言おうとしていたけれど、聞く気になれず背を向けた。
何が正しくて、何が間違えているのか——そんなことは、もう、どうでもいい気がした。己の本能の赴くまま、生きていくほかないのだろう。あの父親とあの母親から生まれたのだから……。
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