27人が本棚に入れています
本棚に追加
名もなき男
屋敷の玄関を開けた男の頬は高揚している。極度の緊張から呼吸は浅くなり、そのせいで鼓動が嫌というほど早鐘を打つ。
「しっかりしろ……」
気がつけば図体ばかりが無駄に大きくなってしまった。昔は良かった。熊のような身体をのそりのそりと揺らしているだけで、日が昇り、暮れていった。そのうち、図体に見合うだけの食事にありつける運を使い果たし、更には、出来の悪い頭のおかげで、食いっぱぐれるようになった。
肋が浮き出た胸、腑など入っていないかのように抉れた腹、皮の張り付いた筋張った指、棒切れのような腕、物乞と馬鹿にされ、挙げ句の果てにへし折られた、二度と使い物にならない脚——名乗る名すら持ち合わせていない男は、その女に出逢うまで、生きる気力すら失っていた。
女の名は沙和と言った。
「私のお願いを叶えてくれたら、好きなものを好きなだけ食べさせてあげます。どうですか?」
紅色の着物を纏い、きちんと髪を結い、草履の先からのぞく足袋は少しも汚れていなかった。
「俺のことは放っておいてくれ。足が腐り始めてる。あと数日もすれば蛆がわいて、俺の身体を食い尽くすのさ」
良家の娘の、気まぐれで偽善的な言葉など信用に値しない。男は女の顔を一瞥し鼻で笑った。
「足も治してあげられますよ?私なら」
女はおもむろに手を伸ばし、踏まれた枝さながら、あらぬ方向に向いている男の足に触れた。その肌は雪と見間違うほど白かった。
「なにしやがる」
「心配しなくても大丈夫です。痛くありませんから」
女は変わらず微笑み、両手で男の薄汚い足を撫でていく。ゆるゆると伝わる熱が心地良く、男は抵抗するのを諦めた。少し動かせば激痛が走っていたのが嘘のように、男の足はだんだんと元の位置に戻り「もう少しですね」と女が呟いた頃には、自力で動かせるまでになっていた。
「私と一緒に行きましょう?そして、私のお願いを叶えてください。そうすれば、もっと良いことがありますよ?」
女はゆるりと小首を傾げ、男はこくりと頷いた。
「良かった。あなたなら一緒に来てくれると思っていました」
天女だ——男はそう思った。
最初のコメントを投稿しよう!