名もなき男

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名もなき男

   屋敷の玄関を開けた男の頬は高揚している。極度の緊張から呼吸は浅くなり、そのせいで鼓動が嫌というほど早鐘を打つ。 「しっかりしろ……」  気がつけば図体ばかりが無駄に大きくなってしまった。昔は良かった。熊のような身体をのそりのそりと揺らしているだけで、日が昇り、暮れていった。そのうち、図体に見合うだけの食事にありつける運を使い果たし、更には、出来の悪い頭のおかげで、食いっぱぐれるようになった。  (あばら)が浮き出た胸、(はらわた)など入っていないかのように(えぐ)れた腹、皮の張り付いた筋張った指、棒切れのような腕、物乞と馬鹿にされ、挙げ句の果てにへし折られた、二度と使い物にならない脚——名乗る名すら持ち合わせていない男は、その女に出逢うまで、生きる気力すら失っていた。  女の名は沙和(さわ)と言った。 「私のお願いを叶えてくれたら、好きなものを好きなだけ食べさせてあげます。どうですか?」  紅色の着物を纏い、きちんと髪を結い、草履の先からのぞく足袋は少しも汚れていなかった。 「俺のことは放っておいてくれ。足が腐り始めてる。あと数日もすれば(うじ)がわいて、俺の身体を食い尽くすのさ」  良家の娘の、気まぐれで偽善的な言葉など信用に値しない。男は女の顔を一瞥し鼻で笑った。 「足も治してあげられますよ?私なら」  女はおもむろに手を伸ばし、踏まれた枝さながら、あらぬ方向に向いている男の足に触れた。その肌は雪と見間違うほど白かった。 「なにしやがる」 「心配しなくても大丈夫です。痛くありませんから」  女は変わらず微笑み、両手で男の薄汚い足を撫でていく。ゆるゆると伝わる熱が心地良く、男は抵抗するのを諦めた。少し動かせば激痛が走っていたのが嘘のように、男の足はだんだんと元の位置に戻り「もう少しですね」と女が呟いた頃には、自力で動かせるまでになっていた。 「私と一緒に行きましょう?そして、私のお願いを叶えてください。そうすれば、もっと良いことがありますよ?」  女はゆるりと小首を傾げ、男はこくりと頷いた。 「良かった。あなたなら一緒に来てくれると思っていました」  天女だ——男はそう思った。
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