名もなき男

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   嫌味なほど磨き上げられた床を力任せに踏みつけながら、沙和に言われた通り歩みを進める。角を曲がると、庭に面した部屋から若い女の声がした。 「おかえりなさい」  沙和とは違う女の声。晴天に突き抜けるような通る声だ。沙和とは似ても似つかない。沙和の声は、耳をすまさなければ雑音にかき消されてしまいそうなほど、か細くて頼りない。 「随分とお早いお帰りですね」  両親が帰ってきたと思ったのだろう。女は満面の笑みを浮かべ、跳ねるように部屋から廊下に躍り出た。  お互いの視線がぶつかった。女は息を呑み、男はただ黙っていた。 「……どちら様ですか?」  男の姿を上から下まで舐めるように見つめ、女——紅芭(くれは)といっただろうか——は、怯えたように後ずさる。  騒がれるのは面倒だ。男は今や太い指で構成された左手で、躊躇うことなく女の口を軽々塞いだ。そのまま腕を上げると、女の体は宙に浮き、分厚い爪が頬に食い込んだ。  痛みに歪んだ女の顔を視界の端に映しながら、男は不躾と言う言葉が実にしっくりとくる仕草で、女の部屋に入り込む。  まだ日焼け跡のない畳の上に衣桁(いこう)があり、そこには美しい花嫁衣装が飾られていた。 ——忌々しい幸せの証。  男は沙和に与えられた刀を抜き取り、真白に輝く花嫁衣装を切り裂いていく。所々、赤い筋が付いているのは、刀を抜き取る際に女の体に刀が触れたからだろう。 ——穢らわしい。  男は忌まわしい着物を衣桁ごと蹴り飛ばし、その勢いのまま女を畳の上に叩きつける。あらぬ力で全身を打ちつけられた女は、息も絶え絶えでもがいている。口元にくっきりと爪の跡が浮かび、なんとも痛ましい。  着物の裾は斜めに切り取られ、晒された太腿にも同じ角度で切り傷がある。白い肌を染める赤い雫に男の背中がぞくりと波打った。 「美味しそうだったら食べてもいいですよ?私にはかなわないと思うけれど……」  沙和の言葉が頭をよぎる。男はごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと女の腿を持ち上げる。適度についた肉が甘美に誘う。  男は沙和によって快楽を教えられ、幾度も幾度も気を遣った。それはまさに夢心地で、骨の髄までもが震えるようだった。男は沙和を求め、沙和はそれを拒まなかった。小さな体で男を受け止める沙和の姿は、いじらしく、妖艶だった。他の女の味は如何なものか。頭の悪い男は目の前の欲に溺れ始めていた。
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