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「沙和様には負けるが、お前もなかなかの美人だ」
女の体に体重をかけ、ぐっと顔を近づけた時——女の右手が男の顔を切り裂いた。女の指先は赤々と染まり、男の顔からは赤い雫が滴り落ちた。
「っ、」
男の怒りが頂点に達するのは一瞬だった。この女は沙和とは違う。
男は怒りに任せて女の顔を数回殴り、女の意識が朦朧としてきたところで懐に手を入れる。沙和に渡された小さなガラス瓶を掴み、用心深く蓋を開け、そこで一度動きを止める。
女は焦点の合わぬ目で男の顔を見上げている。鼻と口からは赤い雫が流れ落ち、街一番の美人という呼び名からは程遠い顔をしている。
「恨むなら己の可愛げのなさを恨むんだな」
男はすっと立ち上がり、瓶の中身を女の顔に向けてぶちまけた。
「っ、いっ、いやっ、熱いっ」
女の顔はみるみる赤く爛れ始め、襲いくる苦痛から甲高い声で叫び、震える体は天井から伸びた糸に操られているかのように、畳の上で足をばたつかせながらのたうち回っている。その光景のあまりの悍ましさに男は怯んだ。
「いいですか?絶対に触れてはいけません」
沙和はそう言って微笑んでいた。その理由がコレだ。男は強張る足を擦るように動かし廊下に出る。視線の先では、女が叫び続けている。断末魔のような叫びが頭の奥で反響し、何人もの女が泣き叫んでいるような気になってくる。あぁ、頭が痛い。割れそうだ。
男は庭に駆け下り、小さな扉に体をねじ込むようにして通りに出る。そのまま、扉を閉めるのも忘れ、慌ただしく路地を駆け抜けて行く。少しでも早くあの女の叫び声から解放されたい。そう、気が焦れば焦るほど、両の脚は鉛の如く重くなり、しまいにはもつれて絡まった。
ざりざりと嫌な音を立てて男が地面に張り付くと「人殺し」と、言う声があたりに響いた。弾かれるように顔を上げた男の目前には——齢五つ、六つだろうか——紅色の着物を纏った子どもが立っている。烏の濡れ羽色をした長い髪、闇夜を模したような大きな瞳、やけに大きな口はニヤリと不気味に歪められている。
「人殺しって……だ、誰のことだ」
男の問いかけに、子どもはゆっくりとした所作でその場にかがみ込み、首を傾げて男の顔をまじまじ眺める。小さな手が人差し指を突き出し、男の鼻先ですっと止まった。
「お前のことだよ」
子どもとは思えない低い声でそう呟き、次にはケタケタと気味の悪い声で笑い出した。それは、声というよりも音——人間の声とは程遠い音だった。
先ほどの女の叫び声にケタケタと笑う声が重なって、男の脳がぐわんぐわんと混ぜこぜになる。
「お、俺は、殺してない。殺してなんかないんだ。あの女、そう、あの女に頼まれたんだ」
両手を地面に突き立て、指で砂利を引っ掻きながら、男は体を震わせる。子どもはぴたりと笑うのをやめ「あの女って誰のこと?」と、先程とは反対の方向に小首を傾げる。
「あ、あの女だよ、あの女」
「ねぇ。だから、誰のこと?」
あの女って言ったらあの女のことだろうが。過去なんだか、未来なんだか、真実なんだか、虚言なんだか、今となってはさっぱり区別のつかない頭の中に、あの女の姿形や名前を探す。
確かにいたんだ、あの女は。男は焦り、焦れば焦るほど全身から汗が吹き出し、唇は震え、見下ろしてくる子どもの目に吸い込まれそうになる。
子どもは変わらずケタケタと甲高い声で気味悪く笑っている。あぁ、そうか。そういうことか。男が全てを悟った時——男は全てのしがらみから解放されていた。
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