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あれは二年前——千杜世の屋敷で暮らし始めて六年の年月が過ぎていた。璦百は十六になり、市中の人々に、桜助の嫁さんと呼ばれていた。
「桜助の嫁さんはいるかね」
「はい、なんでしょう」
「昨日の薬飲んだら、すっかり良くなったんだよ。ほら、歌舞伎役者みてぇに澄んだ声だろう?」
「えぇ、本当に」
「今度なんか歌ってやるからな。じゃ」
「楽しみにしてます。お気をつけて」
呉服屋の旦那を店先まで見送り、向かいの店と、そのまた隣の店の女将さんに挨拶をしてから暖簾をくぐると、太々しい顔でこちらを見ている桜助と目が合った。
「何ですか、その顔」
「嫌ならちゃんと言えば良いだろうが」
「はぁ?何のことです?」
「だぁかぁらぁ、俺の嫁さんだと思われてんのが嫌なんだろう?お前は」
何がそんなに気に入らないのか、顔を赤くして、ずいと身を乗り出してきた桜助の額を弾く。
「っ、つっ、いってぇな」
「私は嫌だなんて思っていませんって何度言えば分かるんですか?嫌だったらわざわざ山を降りて来ません。分かりましたか?分かったのなら、さっさと手を動かしてください」
桜助は二十五になり、薬屋の店主としても、医者としても、妖祓いとしても、ぐんと腕を上げ、市中では、相変わらず頼りになる男で通っていた。そんな男の嫁だと思われることに、何の不都合があるのか……。誰かが「桜助の嫁さん」と璦百に声をかける度、桜助は眉間に深い皺を寄せ、口元をへの字に曲げた。それを見た人々は「桜助さんがまぁた、ヤキモチ妬いとるわ」と言って揶揄うのが常だった。
「お前が嫁にいけなくなっても、俺に責任取れなんていうんじゃねぇぞ」
「嫁に行く気などさらさらありませんから、お気になさらず」
「あれだ、ほら、疵音はどうする。あいつはお前のことを好いているだろう。いいのか?」
「私だって疵音のことを好いていますよ。でも、それとこれとは別の話なんです」
「別じゃねぇだろ。お前にだって、好いた相手と夫婦になることは許されてるんだぞ。おい、聞いてんのか?」
「はいはい。聞いてますよ。いらっしゃいませ。騒がしくてごめんなさい」
璦百は駄々をこね続ける桜助に背を向け、店先へと向かう。暖簾をくぐって薬屋に入ってきたのは、武家の嫡男である柏乃信だった。その佇まいから育ちの良さが感じられる好青年だ。
「こんにちは、璦百さん」
「こんにちは。お母様のお薬、用意してありますよ。その後、食欲は回復しました?」
薬棚から包みを取り出して柏乃信に差し出すと、彼は小さく首を横に振った。
「それが、あまり食べてくれないのです。無理にでも、とは思うのですけど……美味しくないと言うのです」
「お母様は舌が肥えてらっしゃるのね。とにかく今は、なんでも良いから口に入れてもらうことを考えましょう。お好きな甘味や果物でも構わないから、食べたい物を食べさせて差し上げましょう」
「そうですね。帰ったら聞いてみます。何が食べたいか」
暖簾を上げ、柏乃信と共に店を出ると、さっきまで晴れていた空に暗雲が立ち込めていた。
「なんだか雨が降りそう。傘、お持ちになってください」
傘を取る為、店に戻ろうと踵を返した璦百の手を、柏乃信がそっと掴んだ。
「ありがとうございます、璦百さん」
「え?」
「璦百さんに母の話を聞いて頂くと、心が軽くなるのです。また、来てもいいですか?」
柏乃信は川縁に捨てられた仔犬が、すがるような目で見下ろしている。柏乃信の母上は労咳だ。不治の病に侵され、日に日に弱っていく姿を間近で見ることは、周りの者の心も弱らせる。
「私は薬の調合もできませんし、柏乃信様がそれで良いとおっしゃるのなら、いくらでも話を聞きますよ」
「ありがとう。嬉しいです、そう言ってもらえて」
「ふふ。柏乃信様はおかしな方ですね」
「そうでしょうか」
「はい。こんなことで、そんなに嬉しそうなお顔をされるなんて、おかしいです」
柏乃信は、ぽつりぽつりと降り始めた雨の中、何度も振り返っては傘を掲げて歩いて行った。
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