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いつもの日常だった。
いつものように店を閉め、いつものように山の入り口まで桜助に送ってもらい、いつものように「また明日」と言って別れた。
いつものように傾き始めた陽を背負い、いつもの道をゆったりと歩いて行った。いつものように黒狐様の祠に手を合わせ、いつもの角を曲がった時——いつもとは違う景色が目の前に広がった。
屋敷が燃えていた。赤々と炎を揺らし、ちらちらと火の粉を踊らせている。白と黒の煙が立ち上り、我先にと競うように空へ上がっていく。木々が軋んで鳴いている。
「……疵音っ」
燃え盛る屋敷の周りを無我夢中で駆けた。疵音の姿はどこにもない。
「疵音っ。疵音‼︎」
「耳が聞こえないのに、返事ができるわけないでしょう?あの子ならきっと燃えてしまったわ」
不意に背後から聞こえた声に振り返る。繊細な作りの目や口を、存分に歪ませて、微笑んでいる娘がそこにいた。柏乃信の許嫁の小夜だった。
「燃えてしまったって……どういうこと?あなたが火をつけたの?そうなの?」
璦百が娘の両腕を掴むと、あっという間に振り解かれた。
「あなたが悪いのよ?柏乃信様に色目を使ったりするから。私はね、あなたみたいな人が大嫌い。ただ微笑んでいるだけで、周りの人からちやほやされる……それを、特別なことだと思ってもいない、あなたみたいな人が大嫌いなのよ。
あなたは旦那様がいるのでしょう?どうして柏乃信様まで欲しがるの?強欲な女は裁きを受けるべきよ」
「だったら‼︎だったら、私を燃やせば良かったでしょう?どうして関係のない疵音を巻き込んだの?」
「大切な人を奪われたんだもの、奪い返して何がいけないの?あなたがしたことは、こういうことなの。柏乃信様は、私とは祝言を上げないと仰ったわ。私だけじゃない、父上も母上も傷ついた。ねぇ、どうして?どうしてあなたなの?どうして私じゃないのよ」
娘は叫ぶように声を上げ、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、璦百の頬を弾いた。勢いに負け、砂利の上に両手をついた時——屋敷が悲鳴を上げながら崩れ落ち始めた。
「疵音……」
「あははははは。いい気味。他人から奪おうとするから悪いのよ。自業自得。因果応報。どんな気持ち?少しは私の気持ちが分かったかしら。あはは、あははははは。いい気味。いい気味よ」
狂ったように笑い続ける娘の足元で、璦百は真っ赤な炎を呆然と見つめていた。疵音が燃えてしまった。疵音が……疵音が……疵音が……。
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