璦百

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   弾ける火の粉がパチパチと音を立てていた。勢いよく風が吹き、あまりの熱さに目を閉じた。 「璦百を傷つける奴は神であろうと仏であろうと許さないよ」  辺りを凍てつかせるような冷酷な声に目を開けると、目の前に聳え立つ大樹で、摩訶不思議なことが起きていた。娘が木の幹に磔にされているのだ。  両腕両足をだらりと垂らし、頭だけが、何か見えない力で押さえつけられているようだった。  声の主は、娘の口から、つつと赤い雫が伝い落ちるのを見て、満足げに「いい気味はどっちだろうね」と言って笑った。  その青年は、白銀の髪を靡かせ、着流しのちょうど尻のあたりから、ふさふさとした尾を生やしている。それも、三本も。尾はそれぞれが意思を持つようにゆらゆらと揺れ、今にも娘に襲いかかろうとばかりに、その毛を尖らせている。 「っ、……ぅっ……」 「今更、泣いたってどうにもならないよ。君が璦百を傷つけた事実は変わらない。  どうしてなのかな。自分が強者だと勘違いしている奴らは、すぐに力で押さえつけようとする。そんなことをしても、相手を傷つけるだけだと思わない?現に、君がこうして傷ついているのは、僕が力で押さえつけているからだ。  でも、仕方ないか。君は話し合いができるような人間じゃないもの。世の中って仕方がないことで溢れているものだよね」  青年は娘の傍に歩み寄り、躊躇うことなくその右手で首を掴み、木の幹に押し付けていく。首の柔肌に長い爪が食い込み、赤い雫が着物の襟に染みをつくる。首の骨がメキメキと嫌な音を立てている。璦百は堪らず、その手にしがみついた。 「死んじゃうよ、その子。やめてよ……疵音」  娘はどさりと木の根元に転がり、白目を剥いて口から泡を吹いている。 「どうして……疵音……」  見上げた先には、確かに疵音がいる。見間違える訳がない。六年前、共に生きていくことを誓った。ずっとそばにいると誓った。支え合い、励まし合い、ただただ懸命に生きてきた。この地を守る黒狐様として生きていこうと決めたのは、疵音がいたからだ。  疵音はこんなに冷酷な眼差しをしていただろうか。己の欲望のままに、他人を傷つけることがあっただろうか。 「大丈夫。全部、僕に任せて。これからは、僕が璦百を守ってあげる。すごいでしょ?耳も聞こえるし、声も出せるんだ。僕にはもう怖いものなんてないよ。大丈夫」 「何が大丈夫、なの?こんなことをして、少しも大丈夫なわけがないでしょう?」  足元に転がっている娘に視線を向けると、疵音に両手を掴まれた。 「大丈夫だよ。全部この子が悪いんだ。だから、璦百が助ける必要なんてないよ」 「この子は確かに悪いわ。私たちの屋敷は燃えてしまったし、関係のない疵音まで巻き込んだ。でも、こんなことしていいわけがないわ」 「関係ない?ねぇ、関係ないって言った?僕って、璦百に関係ないの?」 「そうじゃなくて。今はこの子と私の話でしょう?」 「違うよ、違う。璦百と僕はいつも一緒なんだよ。だから、関係なくなんてないよ。璦百は僕で、僕は璦百だよ。  だから、駄目なんだよ。璦百を傷つけられたら、僕の中の黒い物が暴れ出すんだ。止められないよ。だって、そうでしょう?僕たちはいつだって蔑ろにされてきた。ここは幸せな場所だよ。僕たち二人しかいないんだもの……。  邪魔する奴がいけないんだ。許せないよ、許せない。この女は許せないよ」  疵音の目はみるみる赤くなり、毛は逆立ち、彼の全身を怒りという怒りが包み込んでいくのが分かった。 「こんな女、消えて無くなればいいんだ」  疵音が娘に向けて掌を大きく広げると、娘の体がびくりと跳ねた。強張った全身を震わせながら、口元は「ごめんなさい」と動いている。 「疵音っ、もうやめて‼︎」 「やめないよ。大丈夫。璦百のことは、僕が守るから」  柔らかな銀色の毛は実に器用に璦百の体を包み込み、真っ白な世界へと誘われる。何かが目の前でチラチラと輝き、上も下も、右も左も、全てが分からなくなって、頭が朦朧としてくる。 「疵音っ。疵音‼︎」  叫んでも叫んでも、疵音からの返事はなかった。かわりに、遠く——遥か彼方から聞こえたのは、娘の悲痛な断末魔だった。  全てのことが変わってしまい、もう元には戻れないのだと、その時気がついた。
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