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「じゃあね、疵音。お留守番よろしくね」
璦百は毎朝、山を降り、市中にある薬屋へと行ってしまう。千杜世の言いつけを守って、桜助の手伝いをしているらしい。
黒髪の璦百は、耳さえ隠してしまえば人間に溶け込める。だから、桜助の薬屋を手伝う。疵音は耳を隠しても、銀髪なので、薬屋を手伝うことができない。かわりに、山を歩いて薬草を集める。それならば、耳が聞こえなくてもできるからだ。
璦百はいつも言う。疵音のことは私が守るからね、と。疵音は、璦百を守ることができる、強い男になりたかった。
「疵音って言うんだね、名前」
肩を弾かれ、顔を上げると、女が隣に立っていた。疵音は開いていた本を閉じ、女に向き直った。顔の痣をそっと掌で包み込むように撫でてやると、くすぐったそうに目を瞑った。
「沙和。私の名前は沙和って言うの。いつか、呼べるようになったら呼んでね。何度でも」
そんな日が来るだろうか……。そう思いながらも、しっかりと頷くと、沙和は嬉しそうに破顔した。可愛らしい、そう思った。
次の日も、薬草を集めに山を歩いた。璦百は日が沈む前には帰ってくるから、と言っていた。あんなに待ち遠しいと思っていた璦百の帰りより、気がつけば、沙和のことを考えていた。
薬草を摘み、籠に入れる。薬草を摘み、籠に入れる。それを繰り返しているうちに、籠は薬草で溢れ、今日の仕事は終わってしまった。することがなくなると、また沙和のことを考えた。あの痣を消す方法はないだろうか……。縁側に腰掛け、薬草の本を眺めていると、沙和がやって来た。
「疵音」
沙和の声は聞こえない。聞こえないけれど、璦百とは違う音だということは分かる。少しだけ悲しい音だ。
「怒りってもの凄い力になるの。昨日はね、疵音と別れた後、そう、こんな立派なお屋敷で暮らしたいなって思って、馬鹿な男たちに妖術をかけてみたの、試しに。そしたらね、夜通し作業をしてたの。少しも寝ないでよ?凄いと思わない?あっという間にお屋敷の主よ?私。今度、遊びに来てね?」
「ん」
「ありがとう。楽しみにしてる。疵音は妖術を使わなくても、私とこうしてお話してくれるから、好きよ。馬鹿な奴らとは、違うもの。でも、疵音にはあの人がいるものね。だから、ずっと一緒にいたいなんて言わないから、安心してね。たまに、そう、たまにで良いの。会いに来てもいい?」
もちろんだと頷いて、沙和の痣をそっと撫でる。少しだけ、色が薄くなった気がした。
沙和が自分の屋敷に帰ると、璦百が入れ違いで帰ってくる。
「一人にしてごめんね」
璦百は毎日、そう言って謝った。その度に、暗い暗い闇夜を、一人で見上げる沙和のことを考えた。
季節がぐるりと一周した頃、沙和の顔の痣は綺麗になくなり——疵音は璦百を腕に抱きながら、何も変わらない己自身に苛立っていた。
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