疵音

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   毎日の仕事である薬草集めを終え、いつものように縁側に腰掛け本を開く。時たま、葉の上で雫を揺らす、胡瓜(きゅうり)や茄子や、それらの野菜に目を向け、今日の夕飯は何だろうと考えたり、美しく咲き誇る曼珠沙華の切り花が、花瓶の中で風に揺れている様を眺めたりしていた。  日が傾きはじめても、沙和の姿はどこにも見当たらない。あちらこちらに視線を向けて、沙和が来るのを待ち構えている疵音を見て、彼女はクスリクスリと笑っているのかもしれない。それはそれで、良い気がした。沙和が笑っていてくれるのなら、無様な自分を晒すくらい、どうということではないだろう。  璦百がもうすぐ帰ってくる。そんな気がして屋敷へと続く砂利道に視線を向けると、璦百とは似ても似つかない女が、こちらを睨みつけていた。  何事だろうか、と立ち上がると、その女は口元をぐにゃりと歪め、疵音に掴みかかって来た。  女は全身に怒りという怒りを纏い、腹の底から込み上げる漆黒の渦に、取り憑かれているようだった。両手で疵音の首を握り、じわりじわりと弄ぶように力を込めてくる。 「んっ、ん‼︎」  振り解こうにも、女の力は桁外れに強く、疵音の体はぐいと持ち上げられ、そのまま座敷の奥へと飛ばされた。襖やら壁やらに穴が空いた。全身を打ち付けられ、息をすることもままならなかった。  女は床に張り付いている疵音を見て、満足気に頷くと、懐から小さな瓶を取り出した。 「これが何か分かる?これはね、あの女から全てを奪い取る魔法の水よ。これをここに撒いて、火をつけると、あっという間にこの屋敷は燃えて、そして、なくなってしまうの。そうね、ついでに、あなたもなくなったらいいわ」  疵音の傍にしゃがみ込み、女が瓶の蓋を開けたのを見計らい、左腕を思い切り振り上げた。瓶はどこかへと弾き飛び、中身は女の羽織や頬を濡らした。 「っ、何するの?あんたなんて、耳も聞こえない、喋れもしないただの役立たずじゃないの。大人しくしてなさいよ」 「んーっ、んー‼︎」  懐に手を忍ばせた女を押し倒すと、鋭い爪で顔を引き裂かれ、腹を蹴られた。 「っ、ぐっ……げほっ……」  腹を抱えて咳き込むと、口から液体が飛び散った。赤い、赤い、鉄の味だった。畳に点々と染みをつけながら、女を見上げると、嫌な音を響かせながら笑っていた。璦百とも沙和とも違う下品な音だった。 「全部、全部、あの女が悪いのよ。そう、璦百と言ったかしら?あなたも運が悪かったわね。いかがわしくて、淫乱で、男と見れば誰にでも媚を売って、誘惑する。こんなに立派な屋敷に暮らし、優しい旦那様もいるのに、まだ欲しがる。いやらしい、いやらしい、いやらしい‼︎あんな女、地獄に堕ちたらいいのよ」  女は羽織の袖で頬を拭うと、それを脱いで疵音の体に巻きつけた。鼻を刺すような香りが辺りを漂う。 「さようなら」  女の声と共に、疵音の全身は炎に包まれ、その火種は、あっという間に屋敷全体へと火の手を広げた。目の前が赤く揺れ、沙和の言葉が頭を巡る。 「世の中は理不尽なことで溢れてる。弱者は奪われるばかりで、何も与えては貰えない。強くなる、強くなる。奪われたのなら、奪い返す。ヤられたら、ヤりかえす。そうする他、ないと思わない?」  世の中はいつだって理不尽だ。  耳が聞こえないのも、言葉を話せないのも、全ては神が決めたことだ。殴られ、蹴られ、縛られた。心や体が痛い、痛いと泣き叫んでも、声と言葉を持っていなかった。与えられなかった。そのままでいいのだと、認めてくれる者は誰一人としていなかった。痛かった、痛くて痛くて堪らなかった。璦百だけが、その痛みに気づいてくれた。差し出した手を掴んでくれた。  強くなる、強くなる、強くなる。  奪われたのなら——奪い返す。  それからはあっという間の出来事だった。全身を巡る、怒りや、憎悪や、歓喜や、悲哀や、あれやこれや——この世に存在している全ての感情が合わさって、炎と共に燃え広がった。可笑しなことに、少しも熱くもなく、痛くもなかった。両手を握っては開き、握っては開きを繰り返すうち、とてつもない力を手に入れたことに気がついた。  ふさふさと頭上に生えた耳と、尻のあたりで揺れている三本の尾。あぁ、強くなれたのだと確信した。 「疵音……綺麗……」  沙和は疵音の姿を見て、感動のあまり涙を流した。青ざめた顔で「どうして……」と疵音を責めた璦百とは、真逆の反応だった。 「汚れ仕事は私がするわ」  そう言って、目障りだった女を消し去ってくれた。屋敷は燃え落ちることなく守ることができ、璦百も無事に守ることができた。 「大丈夫って言ったでしょ?」  目を覚ました璦百は、戸惑った様子で自室を見渡し、何かを言いかけて口をつぐんだ。喜んでくれると思っていた。何もかもが元通りなのだと思っていた。思っていたのは——自分だけなのだと痛感した。
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