疵音

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   数日後——千杜世が屋敷を訪れた。よほど急いできたのだろう、その顔には疲労が浮かんでいた。 「疵音。私はお前を祓わなければいけないことになるとは、思ってもいなかったよ」  何を言っているのか分からず、小首を傾げると「人間を殺めたのはお前かい?それとも、別の妖かな?」と千杜世が真顔で言った。 「そういうことか。それなら僕じゃないよ。沙和が殺してくれたんだ。あ、沙和は友達、そう友達なんだ。美しい姿の僕が汚らしい人間を殺める必要なんてない。そう言ってかわりに殺してくれたんだ」 「美しいと思うかい?今の自分の姿を」 「うん。美しいし、何より強いんだ。これで璦百のことを守ってあげられる」 「今のお前に璦百は守れないよ」 「そんなことない。守れるよ。この間だって、守ってあげたんだ。千杜世様の屋敷だって、燃えなかったのは僕のお陰だよ?褒められると思ってた。良くやったって……。どうしてそんな怖い顔をしてるの?」  千杜世は小さく息を吐くと、疵音の傍に座り直し、細い肩をそっと抱いた。 「お前は神の使いになる為に生まれたんだ。耳が聞こえなくても、言葉を話せなくても、ちゃんと出逢うことができただろう?そうだよ、璦百に……。  それなのに、お前は妖と繋がり、挙句、自分自身も妖になってしまった。璦百は守り神だ。この地を離れるわけにはいかない。出て行くのなら、お前だよ、疵音」  千杜世はいつも、懐に祓紙を忍ばせている。この距離で祓紙を出されては、さすがに回避する方法がない。 「僕はもう璦百とは一緒にいられないの?」 「お前は妖だからね」 「もう、妖狐にはならないよ。約束する。妖術も使わない。璦百のいうことを聞いて、良い子にするよ。沙和にも会わない。だからいいでしょう?ここにいても」  縋るように見上げると、千杜世の目が揺れた。この坊主は迷っている。それもそうだ。ここで疵音を祓えば、璦百が動揺するのは目に見えている。璦百は疵音を守ると言いながら、本当は己が守られていることも、良く理解している。  この地に蔓延る妖は、沙和だけではない。自身も妖となった今、疵音はどうしてこの地が取り憑かれやすいのか、身をもって感じていた。どうにもこうにも——居心地が良いのだ。なにせ、守り神である璦百の神力が極端に弱い。そして、優しすぎるのだ。それ以上の理由は見つからない。 「疵音。その約束を守れるのかい?」 「守れるよ。僕は璦百と一緒にいたいんだ」 「そう。でも、もう一つだけ守ってもらわなければいけないことがある」 「何?ちゃんと守れるよ。約束する」  千杜世はほっとした顔をしていた。それならば、何も心配はいらないと言って笑った。今思えば、恐ろしい約束だった。 「璦百のことをどれだけ愛していても、決して交わってはいけないよ。璦百に無闇矢鱈と触れてもいけない。お前は妖で、璦百は守り神なのだから……。身分を弁えるんだよ、疵音」 「身分?僕は璦百に相応しくないということ?」 「そうだよ。今のお前は璦百には相応しくない。でも、思い出してごらん。どんなに傷つけられても弱音を吐かず、じっと耐えできただろう?お前は誰よりも強い心の持ち主だ。初めて会った日を今でも鮮明に覚えている。私は、お前の生きたいという生命力に驚いたんだ。お前は強い子だよ、疵音。璦百とは交わってはいけない。絶対に守るんだ、この約束を」  千杜世は次の日の朝には寺へと帰って行った。信用されているのか、信用されていないのか、正直なところ分からなかった。千杜世さえいなくなったのなら、欲望のまま璦百と交わることも、それ程難しいことだとは思えなかった。璦百も疵音を求めている。その想いに応えることで、他人に咎められる理由などありはしないだろう。  璦百に触れたい。けれど、璦百を傷つけるようなことはしたくない。ただ、頷いてくれれば、それでいい。それでいいのに……。
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