疵音

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 諦めが悪いとはこのことだ。  淡々と日々を過ごす璦百の傍で、必要以上に無邪気な声をあげ、自分はまだほんの子どもで、出逢ったあの日から少しも変わっていないのだと、璦百に理解してもらうことに必死になっている。  夜毎使う妖術のせいで、璦百は目覚めてからも、しばらくはぼんやりとしている。夢の世界と現実の世界の狭間で、たった一人、立ち止まっているようだ。そうさせているのも疵音で、そこからこちらに引き戻すのも疵音だ。  このまま夢の世界に閉じ込めてしまえば、璦百は正常な判断ができず、全ては疵音の思い通りになるだろう。そうすれば、璦百は自分のモノになり、心に開いてしまった穴も、蠢く大きな闇も、消えてなくなるのかもしれない。  沙和を選ぶことも、璦百を諦めることもできない。かといって、この手で閉じ込めてしまうことも躊躇われる。何がしたいんだ。何がしたいんだ。自問自答する日々には、もう疲れてしまった。  そんな時だった。 「紅芭と洸四郎さんがここで暮らすことになったから、分からないことや困っていることがあったら、助けてあげてね、疵音」  璦百の軽やかな声と眩しすぎる笑顔に、胸の奥が騒ついた。紅芭がここで暮らし初めてから、璦百は目に見えて明るくなった。疵音と二人きりだった時は、妖術からの回復も遅く、ぼんやりとする時間が長かった。最近は目覚めるまでの時間がだんだんと短くなっている。抱きしめることで少しずつ染み込ませてきた妖力も弱まっている。柔らかな檻に囚われていた曖昧な空間が、少しずつ変化していることに気がついた。 「そっか。ここは、もう、僕たち二人だけの場所じゃないんだね」 「元々、この屋敷は私たちのものではないでしょう?困っている私たちに千杜世様が与えてくださった場所だもの。紅芭と洸四郎さんがここで暮らすことも、千杜世様のお考えなの。名案でしょう?この屋敷は私たちだけで暮らすには広すぎるもの」 「だからって、あの坊主までここで暮らすのは、なんだか嫌だな」 「あのお坊様はずっといるわけじゃないわ。今は、そうね、自分探しの旅の途中なのよ。これから先、どうするべきか、悩んでらっしゃるみたい」 「僕にはそんな風には見えないよ。紅芭さんは凄く思い詰めてたけど、あの人はそうではないし……。何か悪いことでも考えてるんじゃない?」 「悪いことって?」 「僕を妖祓いするとか……」  璦百が真っ直ぐに見つめてくる。それのどこが悪いことなの?むしろ、正しいことじゃない。疵音、あなたは妖祓いされるべきよ。自分でもそう思うでしょう?そんな声が聞こえた。璦百の声のようであり、違うようでもあり、結局のところ、自分の声のようでもあり、訳がわからなくなってくる。くらりと視界が揺れ、思わず俯いた。 「私が許さないわ、そんなこと。疵音と私は、ずっと一緒よ」  不意に温かな熱に包まれ、璦百に抱きしめられていることに気がついた。璦百の手は震えている。それが何を表しているのか、すぐに分かった。  これから先のことに悩んでいるのは、あの坊主だけじゃない。璦百も同じなのだ。
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