疵音

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   また夜が来る。夜が来ると、どうしようもなく体が疼き、沙和を求めずにはいられない。交われば、交わるほど、ナニかが壊れていく。分かっている。分かっていても、他に方法が思いつかない。日に日に大きな渦となって、体内を暴れ回る、焦燥や絶望や哀願を、どうすれば良いのかが分からない。  腕の中で眠っている璦百を、さらに深く深く眠らせ、自分はふらりふらりと屋敷を抜け出す。紅芭も洸四郎も坊主も、皆、夢の中だ。  煌々と輝く月は、相変わらず目障りだ。我が物顔で夜を支配し、無慈悲にこちらを照らしてくる。そんなことは、望んでなどいないのに、毎夜、毎夜、上っては照らす。全く迷惑な話だ。  沙和の屋敷は薄暗い。背の高い木々に囲まれているからだ。暗闇は良い。落ち着く。いつもと同じ道を歩き、いつもと同じ場所で立ち止まる。沙和の屋敷の門前だ。 「疵音。いらっしゃい」  沙和はそう言うと、腕を絡め、体を擦り寄せてくる。それは、毎夜、毎夜、飽きることなく繰り返される。——はずだった。  その夜、待てど暮らせど、沙和は門前には現れず、疵音は痺れを切らし、一人で門をくぐった。屋敷内に沙和がいることは、すぐに分かった。情事の時に沙和の口から溢れる、甘ったるい喘ぎ声が聞こえたからだ。 「っ、あっ……んぅ……あぁっ」  疵音が屋敷を訪れた時、沙和が他の男と一緒にいるのははじめてのことだった。あぁ、こうしていつも、男に抱かれ、その度に生気を吸い取っては妖力を増しているのか。妙に冷めた気分になり、屋敷に背を向けた。どんな男と交わろうが構わない。嫉妬心や独占欲なんてものもない。ただ、疵音の役に立つ為——あの言葉の真意が分からなくなった。  沙和の屋敷を後にしたからといって、真っ直ぐに璦百の元へと帰りたくはなかった。とはいえ、他に行く当てもない。  結局、屋敷に戻り、眠っている璦百の隣に身を滑らせた。どんな夢を見ているのだろう。そこに自分はいるだろうか。寝言でも構わない、慈しみのこもった声で、名前を呼んではくれないだろうか……。ただただ璦百の寝顔を見つめ、艶やかな髪を撫で、夜を明かした。幸せな時間だった。  いつの間に眠ってしまったのか、名を呼ばれ目を開けると、璦百が優しい笑みを浮かべ、こちらを見ていた。 「おはよう、疵音」  こんなことは久し振りだった。疵音に眠らされている璦百は、それこそ、疵音が起こすまで目を覚さない。昔は当たり前だったこの光景に、今では違和感しか感じられない。 「……どうして?」 「どうしてって……朝だから、朝の挨拶をしたのよ?分かった。まだ寝ぼけているのね?それとも、今朝は私の方が早起きだったから、不貞腐れているの?」  疵音の顔を覗き込んでいる璦百は、目覚めが良かったおかげでご機嫌だ。疵音に起こされた後、暫しぼんやりと宙を見ている時とは全くの別人が、手を伸ばし頬に触れた。 「疵音?大丈夫?なんだか顔色が悪いわ……」  それもそうだろう。何がどうなって、こうなったのか、どんなに悪い頭で考えても分からない。名を呼ばれても、体を気遣われても、何と答えて良いのか分からない。  触れた掌から伝わる熱に、妖力は感じられない。どうして、どうして、どうして。この二年間、璦百に気付かれないよう、少しずつ少しずつ染み込ませてきたというのに……。いや、違う。気づかれていたけれど、責められなかっただけだ……。 「ごめん……少し、一人にならせて」  璦百の手を振り払い、頭から布団をかぶり、そのまま横になる。璦百は何も気づいていない。いや、気づいていても、素知らぬフリをしていた。では、誰だ。誰が気づいた。紅芭か、それとも洸四郎か——いや、あの坊主だ。あの坊主のせいで、全てが台無しだ。  一日中布団で横になり、璦百が用意した食事にも手をつけなかった。 「疵音……」  一向に布団から出ようとしない疵音の名を、璦百は切なげに呼んでいた。その声に憎悪や嫌悪が少しも含まれていないことが、苦しくて、苦しくて仕方がなかった。  少しだけ空いている襖から、傾きはじめた陽の光が疵音の眠っている布団を刺すように照らした時、何の気配もなく坊主が部屋に入って来た。 「あんた、何者?」 「私はただの坊主ですよ。まぁ、近いうちに坊主ではなくなるかもしれませんが」 「そんなことはどうでもいいよ」 「そうですね。私のことなど、あなたには少しも関係のないこと。しかし、私はどうでも良いとは思えないので、一つだけお伺いしても良いでしょうか」 「なんでも聞けば?」 「ありがとうございます。では」  坊主はそう言うと、改まったように、疵音の傍に座り直した。 「あなたは、璦百様を妖にしようとしているのですか?」  少しも誤魔化さず、真っ直ぐに疵音を見据え、試すような眼差しで問いかけられ、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑うことしかできなかった。
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