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「どうして僕がそんなことを」
「私にも分かりません。それ故に、お尋ねした次第です」
やはりこの男だった。妙な気配を纏い、自分は無害だという顔で微笑み、この平和な屋敷に暗雲を立ち込めさせた。嫌な男だ。
「僕は何も知らないよ。約束したんだ、千杜世様と。もう、妖狐の姿に変化しない、誰のことも傷つけない、璦百のいうことを聞く。僕は何も知らないよ」
坊主を見据え、そう答えると、あちらの瞳がちらと揺れた。その意味を図り兼ねていると、矢継ぎ早に問われた。
「私はあなたを責めるつもりはありません。この屋敷が燃えた時、あなたが妖にならずにいたら、間違いなく死んでいたでしょうから。そうすれば、璦百様は立ち直ることができないほど心に傷を負ったでしょう。
私は、妖となったあなたに、この屋敷を出て行けと言うつもりはありません。ただ、知りたい。何故、約束を破棄したのですか?」
「約束?だから、僕は約束を守ってるって言ったじゃない」
「本当にそう言い切れますか?」
「言い切れるよ。そもそも、つい数日前にこの屋敷に来た君に、一体何が分かるっていうの?」
「分かりますよ。璦百様があなたのことで、酷く傷つかれていること、悩まれていること、あなたはそれを知ろうともせず、沙和という妖に入れ込み、無駄に妖力を増していること。
可笑しいと思ったのです。黒狐様ともあろう璦百様が、時折、負の感情に揺さぶられている。纏う神気も極端に弱い。全てはあなたの成せる技。璦百様からの愛を無下にし、己だけが苦しいのだと思い込み、一番身近な存在であることを利用し、陥れようとしている」
「璦百からの愛?そんなものどこにあるっていうんだよ。あれから二年、ずっと願ってきた。璦百がただ頷いて、僕に身を任せてくれたのなら、どこまででも堕ちていけたんだ、二人で。この地の守り神?そんなのどうだっていい。僕は璦百が神様だから求めてるわけじゃない。璦百が璦百でいてくれれば、姿形や、神様だとかそんなことはどうでも良かったんだ。璦百は僕が差し伸べた手を、もう掴んではくれない。僕のことなんて、少しも愛していないんだ」
布団から起き上がると「どこへ行くのです?」と坊主が問うた。その視線は相変わらず飄々としていて、見ているだけで腹が立ってくる。
「どこだっていいでしょ」
「沙和、と言いましたか?あの妖に会いに行かれるのでしたら、あの屋敷にはもう入れませんよ?」
「……どういうこと?」
「昨晩、あの妖は私が直々に妖祓い致しました。その時に結界を張り巡らせておいたのです。ですから、あの妖は屋敷の外には出ることができません。そして、あなたも入ることはできないのです」
「昨晩?妖祓い?なんのこと?」
「ほう。お気づきになっていなかったのですね。妖といえど、なかなか良い女子でございましたよ」
意地悪く口角を歪めた坊主に、虫唾が走った。昨晩といえば、思い当たるのは、屋敷の門前で聞いた沙和の声だ。あの時、屋敷の中にいたのが、この坊主だったとしたら——自分は、妖祓いに弄ばれている沙和に気づかず、この屋敷へと舞い戻って来たことになる。
沙和は助けを求めていたのではないだろうか。夜毎屋敷を訪れる疵音を、待っていたのではないだろうか。あの時、いつもと違う状況を、可笑しいと思っていれば……。大変なことをしてしまった。
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