疵音

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 寝間着姿だということも構わず、勢いよく襖を開け、そのまま庭に降り立つ。陽光は山並みに沿って光を放ち、もうすぐ訪れる夜を知らせている。  この坊主がどれほどの力を持っているのかは分からない。それでも、沙和は強靭な妖だ。簡単には祓われるわけがない。 「疵音」  不意に名を呼ばれ振り返る。璦百が立っていた。両の目に涙を湛え、それがこぼれ落ちるまいと唇を噛んでいる。 「ねぇ、全部知ってたの?」  そう問いかけると、黙って頷いた。あれほど、願っても頷いてくれなかったというのに……。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しくて、泣けてくる。 「なんで?なんでだよ。なんで、今頷くんだよ。何も知らないって嘘つけばいいだろ?僕は何度も何度も嘘をついて、璦百を欺いてきたんだよ。知ってたんでしょ?知ってたのに、どうして止めてくれなかったの?」 「止められるわけないじゃない。疵音は私のせいで妖狐になった。悪いのはこの私。全部、私が悪いの。知ってたよ。疵音が私を眠らせて、あの子の屋敷に行ってること……知ってた。  でも、止められなかった。疵音が求めているのは、自分と同じように苦しみ、踠いている、あの子だったから……。私は、疵音に寄り添えなかった。黙認して、全てを受け入れているフリをして、愛することを履き違えてた。ごめんね。もう、知らないフリなんてしない。だから、絶対に行かせない」  ふわりと抱きしめられ、璦百の澄んだ目から零れ落ちた涙が、肩に落ちて染みをつくった。たった、ひと雫、ふた雫の涙は、寝間着に染み込み、あっという間に肌に触れた。ジリジリと灼けつくような熱に、思わず璦百の体を引き剥がそうと手をかけた。 「駄目だよ。離さない」 「っ、離せよ。今更、なんだっていうんだよ」 「本当、今更だよね。もっと早くに、こうするべきだった……」  喉から絞り出すように紡がれたその言葉は、あなたと一緒にいたい。そんな甘い響きは少しも含まれていなかった。疵音は神の使いとして生まれた身でありながら、妖と交わり、しまいには己の家族にまで手をかけた。璦百は決めたのだ——疵音の手を離すことを……。  璦百の腕を掴み、力任せに体を引き剥がす。地面に張り付くように膝をついた璦百の指先が、ざりざりと嫌な音を立てている。  璦百はあの日もそうやって、己の中に沸き起こる負の感情に蓋をしようとしていた。結局、抑えきれなかったじゃないか。泣けばいい、あの日みたいに、泣き喚いて感情を爆発させればいい。璦百は——最強の妖になれる。疵音は確信していた。 「璦百に僕を消すことなんてできないよ」 「そんなことない」 「そう?じゃあ、お手並み拝見だね。こう見えて、僕の妖力はそこら辺にいる雑魚とは桁違いだよ。どうしてか分かる?沙和と何度も何度も交わったからだよ。  負の感情って凄いんだよ。一人のときより二人のときの方が、強さを増すんだ。僕たちはお互いの傷を舐め合いながら、強くなったんだ。璦百には分からないよ。負の感情に蓋をして、ヘラヘラ笑ってる奴らになんて、僕たちの苦しみなんて分からないんだよ」 「疵音っ‼︎」  璦百の静止を無視して、妖狐へと変化する。腹の底からものすごい勢いで湧き上がる、仄暗い感情を本能のままに開放する。  心の臓だけではない、臓器という臓器が黒くなり、本来の役目を放棄する。待ってましたとばかりに動き始めるのは、剥き出しになった感情だ。理性も知性も、寛容さも持ち合わせていない、ただの獣だ。目の前に現れたものを次々と切り裂き、食い散らかす。疵音の輝く銀髪は風に靡き、時折、獣の耳が顔を覗かせる。尻からは三本の尾が伸び、今にも璦百を捕らえようと揺れている。  こうなれば、もうこちらのものだ。渦を巻き起こし、沙和の屋敷へと瞬時に移動することなど容易いことだ。誰にも、もう止められない。
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