疵音

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「せっかくだから、璦百も一緒に行こう」  あの日のように感情の渦に溺れかけている璦百に手を差し伸べる。今なら間に合う——。 「行かないよ。私は千杜世様と出逢ったあの日、この地に来るべくして来たんだって分かったの。どうして銀色の髪で生まれてこられなかったのか、どうしてあんなにも孤独だったのか、どうして疵音に出逢ったのか……全てはこの地を守る為だった……。この場所は、私が生まれ、そして生きる意味なの。ねぇ、疵音……それは、あなたも同じなんだよ?疵音がいたから、私は」 「やめろよ‼︎もう、そんな言い訳じみた話は聞きたくもない。結局、璦百には僕よりも大切なモノがたくさんありすぎるんだ。だから、僕なんかいなくなっても平気……そういうことなんだよ。璦百はいつだって傍観者だった。僕の心がどれほど傷ついているかなんて、少しも知ろうとしなかった」 「違うの、疵音」 「何が違うんだよ‼︎」  怒りで体が震え、眼球へと集まった血が、視界を赤々と染めていく。消えろ、消えろ、消えろ——全部消えてしまえ。  璦百に掌を向ける。これから何が起こるのかを察知した璦百の顔面は蒼白だ。今更そんな顔をしても、もう遅い。 「君は分かっていない‼︎少しも分かっていないよ‼︎」  璦百の頬をかすめた妖術は赤々と線をつけ、漆黒の髪が行き場をなくして地面に散らばった。坊主は璦百を自分の背に隠し、こちらを睨みつけている。 「あんた、本当に目障りだね。先に消してあげるよ」  一瞬のことだった。坊主が地面を蹴った瞬間すら、認識できていなかった。一つ瞬きをして、目を開いた時には、坊主が目の前にいた。 「あんたさ……本当、何者なわけ?」  坊主の掌は疵音の胸に添えられ、そこにはしっかりと祓紙が握られていた。動きを止めていた心の臓が、在らぬ力で脈打ち、全身に大量の血を巡らせていく。鼓動に合わせ、体が波打ち、水分という水分が皮膚から蒸発していくような恐怖に陥る。 「私はただの坊主ですよ」 「ただの、坊主なわけ、ないよ。あんたは、千杜世様の弟子、なん、でしょ?」 「そうですね。でも、元弟子と言った方が正しいです」 「頼まれて、来た、わけじゃ、ない、の?」 「違いますよ。自分探しの旅の途中で、困り果てている黒狐様に出逢い、この方になら、残りの人生を捧げても構わない、そう思ったまでです」 「はぁ、あ、嫌に、なっちゃう、ね。全ては、巡り、合わせ……」 「それは違います。あなたは気づかなかった。共に堕ちてゆくことも愛ならば、堕ちてゆこうとする者の手を掴み、決して離さないことも愛だということを……」  坊主の肩越しに璦百と目が合った。感情が暴発しないよう、両の手をしっかりと握りしめ、ただただ涙を流している。見放されたわけではなかったらしい。璦百は最後の最後まで、この手を離さずにいてくれた。どれほど傷だらけになろうとも、強く握りしめ、導こうとしてくれていた。そうだ。気がつかなかったのは、自分だ。こんなにも愛されていたのに、その手を振りほどいた。後は堕ちるだけだ……。 「そっか……。もっと、早く会い、たかったよ、あんたには……。璦百の、こと、よろしく、ね」 「っ、何を?」  確かに坊主の瞬間移動は素晴らしかった。けれど、疵音のそれも、坊主に負けず劣らずだった。坊主の腕を払い、距離を取る。胸から祓紙を引き剥がすと、呼吸の乱れが少しばかり落ち着いた。 「一人で逝かせるわけにはいかないんだ。ほら、二人でイく方が、気持ちいいじゃない?」  ニヤリと口角を歪めると、坊主が呆れたように息を吐き、小さく頷いた。 「疵音っ‼︎」  璦百がこちらに駆けて来る。その姿を見つめながら、生まれ変わることができるのなら、また、出逢いたい。そんなことを考えていた。 「じゃあね、璦百」 「疵音‼︎疵音ーーー‼︎」  泣き叫ぶ璦百の声は風の音に掻き消された。愛しくて、愛しくて、愛しい人の声——もう二度とこの耳で聞くことも叶わないのかと思うと、少しだけ、視界がぼやけた。
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