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ヤンを出窓に置いて郵便受けを見にいく。中身が空なのを確認した時、どこかで鶯が鳴いているのが聞こえた。やさしい風と朝日。右を向けば竹林、左は森。前後は原っぱで小川が縦断している。水音が耳に涼やかで、朝日のぬくもりとちょうど良いバランスだった。
「ランドマークタワー、見えないじゃん」
揺恵が住む家の住所は栄区上郷町である。二十分も歩けばJR根岸線の港南台駅に着くが、そのためには坂を上らなければならない。低地のせいか、横浜に移り住むと聞いて見るのを楽しみにしていた建造物は影も見えない。
リビングに戻るとヤンは出窓で日向ぼっこをしていた。それをほほえましく眺めながら、パンとコーヒー、昨日作った野菜スープを準備する。食器を並べる横で、ヤンがつぶらな瞳で見つめてくる。何だか物欲しそうな目に見えるのは気のせいではないだろう。
揺恵はコーヒーの生豆を掴み取った。それを握りこみ、意識を手のひらに集中する。
そして強くイメージする。自分の手のひらが小さな焙煎機となっていることを。
「ロースト・イタリアン」
呪文は適当だが、手のひらの中で生豆は熱を持ち、くぐもった破裂音がした。
固く結んだ手のひらを開けば、さっきまでの生豆はにじみ出た油脂で黒い艶と香りを放つ深煎りの状態になっていた。水分は完全に飛んで、皿に落とせば乾いた音を響かせる。苦味が手に見て取れる香りを放つ豆にヤンは頬張った。
硬い豆を、かりかりと音を立てながら前歯でかじるヤンを眺めつつ、揺恵は窓の外を見遣る。のどかな風景は、揺恵が思う横浜のイメージとはかけ離れていた。
「何でこんな場所を選んだんだか」
考えの全てを聞くことができなかった母親のことを思うと、笑みと共に喉がうずくような感覚が起こる。本人の答えは二度と望めないが、きっと彼女はこう答えただろう。
「ここが魔術をやるのに一番都合が良いからよ」
数か月前、離婚以来女手一つで育ててくれた母親の菜莉子は受験勉強の最中にこの世を去った。そんな彼女は主に工場の事務職で収入を得ていたが副業もしていた。それが魔術という技術を使ったものだと理解したのは中学生の頃だ。
母親が何か不思議なことをやっているのは小学生の頃から知っていた。壊れた食器や料理道具を、何故か理科室で見るようなフラスコやビーカーを使って修繕していたのだ。
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