新たな境地

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「伊丹くーん、ちょいこっち来て!」 「え?ああはい。...すみません、ちょっと行ってきますね」 明智たちと他愛もない話をしながら酒を飲んでいれば、突然名指しで呼び出しを食らう。 いつも飲み会では影も薄くそんなことをされたことは過去に一度もない。 なんか悪いことじゃないだろうなと勘ぐりながらも、伊丹は断りを入れて腰を上げた。 「...って、..え?明智さん?」 「...伊丹、」 「ちょ、明智。やめなって行かせてあげなよ、あんたさすがにキモいよそれは」 いざグラスを持って移動しようとすれば突然明智に腕を掴まれ、思わず明智の顔を窺う。 明智は何故だか不安そうな顔をしていて、まるで傍を離れてほしくないかのようなその表情にここに留まろうかと考えが過った。 しかしそれも明智の隣にいた向井に制されて、伊丹くんこいつのことは放っておいて行って来な、という言葉に小さく頷く。 「...伊丹、」 「ほんとあんたどうしちゃったの。キモすぎワロタなんだけど」 「お前なぁ...今俺余裕ねぇから茶化すなよ」 「そんな伊丹くんのこと好き?」 「....まあな」 伊丹が他のテーブルに腰を落ち着ける姿をじっと見つめている明智に冗談ぽくそう言えば、明智は本気の顔をして視線を伏せる。 それは向井の知っている強気な明智ではなくて、その意外すぎる姿に、明智をここまで丸くさせるとか伊丹くんってどんな人なんだよとその背中に視線を向けた。 伊丹とはそこまで関わりがあったわけではない。 研修や社内イベントの時も一人でいることが多く、しかし話しかけられれば普通に笑顔を浮かべてやり過ごしているから、人付き合いも割り切ってやっているように思えた。 同期でも特別伊丹と仲がいいという話はあまり聞いたことがない。 前に瀬谷と話した時は伊丹という同期はすごいんだぞと力説された気もするが、そこまで印象には残っていなかった。 先ほど軽く話した感じでもやはり遠慮がちで、しかし人一倍周囲に気を配って積極的に動いているので、自分のことは後回しにするタイプだなとぼんやり思った。 「明智はああいう子がタイプだったんだねぇ..」 「...タイプとかじゃねぇ」 「え?どういうこと。気遣いできる大人しめ清楚系が好きなんじゃないの」 「...俺は、伊丹だから好きなんだよ」 「うわぁ...ガチ惚れじゃんか」 今まで社内恋愛で破局して気まずくなるカップルは何度も見てきた。 自分の仲のいい人間がもしそうなったら全力で止めてやろうかと思っていたが、それも目の前の純情すぎる男を見ると応援してやりたくすらなる。 「...ねぇ、もう告ったの?」 「あ?...告ったよ。出張の時にな」 なんだもう告白してたのか。 向井はそう思うと同時に、先程から二人から醸し出される初々しい緊張感を孕みつつもお互いの信頼関係が窺えるようなやりとりに納得がいった。 「うわ何そのイベント。てかそんな事あったんならあたしに連絡してしてくれれば良かったじゃん。恋愛ならいつでも相談乗るのに〜」 「男同士だし伊丹の気持ちもあるし、あんまペラペラ話すわけにいかねぇだろ」 「ほんとに好きなんだ...。あの周りの人間はみんな敵!みたいな明智がねぇ...なるほどねぇ...」 なんだか一人息子が親元から旅立っていくかのような幸福感に包まれながら向井は、未だに伊丹の方を心配そうに見つめている明智の背中を思い切り叩いた。 「いってぇな...なんだよ」 「頑張れ明智、あたしは応援してる!あとは惚気でも肴にして今度飲み行こうよ」 「...お前にだけは絶対伊丹の話してやんねぇ」 久々に見た仲の良い同期は、信じられない方向に成長を遂げていて、向井はそれを可笑しく思いながらも、微笑ましくあたたかい気持ちになるのを感じた。
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