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芹沢英輔が息を引き取った。
部屋の中には華音と高野、そして富士川青年の三人が通された。
祖父は生前と変わらぬ険しい顔で、寝室のベッドに横たわっていた。
唯一の身内である華音よりも、富士川のほうが取り乱していた。ベッドの脇に膝をつき、芹沢老人の遺骸に取りすがり、声を押し殺すように泣いている。一番弟子である富士川にとって、芹沢英輔という人物は神にも等しい存在だった。
華音は、震える富士川の背中をじっと見つめていた。
主治医と看護婦はすでに一階へ下り、執事と今後の対応を話し合っているようだ。
「もうすぐ三時か……」
高野が、壁掛け時計を見ながらひと言呟いた。
富士川はようやく顔を上げ、ゆっくりとよろめきながら立ち上がった。ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、眼鏡を外して涙を拭った。
「俺、公会堂に戻ります。電話では事情を説明しきれないので」
楽団員たちが、音楽監督が戻ってくるのを信じて待っているのである。演奏会開始予定は七時。時間はない。
コンサートマスターである富士川は、現況を説明すべく、一度戻らなければならない。
富士川が踵を返し、部屋から出ようとドアノブに手をかけた、そのとき――。
「私も行く」
華音がそう言うと、富士川は驚いたように振り返り、泣いて充血した目を見開かせた。
「何言ってるんだ、華音ちゃんは芹沢先生についていてあげないと」
そう言って、富士川はすぐに華音に背を向け、再びドアノブに手をかけ直す。
「やだ、祥ちゃんと一緒に行く」
華音は富士川のそばへと駆け寄り、シャツの袖をつかんだ。
富士川は立ち止まり、袖をつかむ少女を振り返った。その顔には、困惑の表情を浮かべている。前へ進むことも、引き止められた手を振り解くこともできず、身動きが取れないでいる。
高野はその状況を見かねて、ゆっくりと二人に近づくと、富士川のシャツから華音の手をそっと引き剥がした。
「ノン君、あんまり富士川ちゃんを困らせないの。たぶん向こうは、これから修羅場になるだろうしね」
高野に諭され、華音はやっとの思いで小さく頷いた。
一方の富士川は、『修羅場』という言葉を聞いて、眉間のしわをさらに深くする。
「そうですね、おそらく。華音ちゃんは高野さんと一緒にいればいいよ。公会堂のほうが片付いたら、すぐに戻るから。いいね?」
富士川は高野に目配せをした。すると高野も、それを無言で受け止めた。
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