32人が本棚に入れています
本棚に追加
この高野和久というピアニストも、富士川と同様に、華音が物心ついた頃から芹沢家に出入りしていた。しかしこれまで、華音の両親のことについて触れたことは一度もなかった。
興味がないといえば、嘘になる。
しかし、十五年もの間頑なに口を閉ざしてきた祖父が亡くなったからといって、それをすぐに聞いてしまうというのは、祖父に対する裏切り行為なのでは――華音は複雑な思いに囚われてしまう。
華音に両親のことを話して聞かせたくない理由が、祖父には何かあったに違いない。
そう思うと、とても素直に聞く気にはなれなかった。
「いいよ別に。父親は『大学中退して、カケオチ同然に家を出た不義理の息子』で、母親は『どこのウマの骨だか分からない、大切な一人息子をたぶらかした魔性の女』なんでしょ。聞き飽きたよ、そんなの」
「うわ、誰が言ったのそんなこと」
「おばあちゃんが生きてたときに、しょっちゅう言ってたもん。で、赤ちゃんだった私を残して、事故で死んじゃったって」
あのババアはなぁ……と高野は苦々しく呟いた。
高野にとって、芹沢夫人はあまりいい印象ではないらしい。その芹沢夫人も、五年前にすでに他界している。
「あとは? その他に何か言ってた?」
「ううん、それだけ。私の父親って人のものは全部処分してしまったから、何もないって。写真もないから、顔も分かんない。知ってるのは、名前だけ」
「写真も残ってないのかあ。案外どっかに隠してんじゃないの? でもね、ノン君は父親似だよ。卓人さんに瓜二つだもんな。俺、学生時代に何度か会ったことあるけど、なかなかカッコいい人だったよ」
高野は、見知らぬ父親と、過去に時間を共有していた。
学生時代となると、おそらく十七、八年前のことだろう。きっと、華音がこの世に生まれてくる前の話だ。
両親が事故で亡くなったのは、華音が一歳になったばかり、十五年ほど前のことだと聞かされている。
「やっぱさあ、俺たちも行こうか? 公会堂に」
唐突に、高野がソファにふんぞり返りながら、そう華音に提案してきた。
「え? これから?」
華音は驚いた。富士川に、ここに残るように言われている。
そして、『公会堂は修羅場になる』と言っていたのは他でもない、華音の隣で座ってくつろいでいる、このピアニストなのだ。
「どうせここにいたって、俺たちじゃ何にも役に立たないし、執事さんたちにあとは任せてさあ。チラッと様子、見に行ってみよう。何だかさ、胸騒ぎがするんだよねえ……」
高野はやはり気になっているのだろう。もちろん心配でもあるのだろうが、修羅場見たさの野次馬根性に違いない。
しかし華音も、富士川がどんな大変な状況に置かれているのか、とても気掛かりとなっていた。
理由は何であれ、高野の申し出は願ってもないことだ。
二人は意見が一致した。
さっそく二人は執事に事情を説明し、高野の運転する車で市立公会堂へと出ることにした。
そして高野の『胸騒ぎ』は、的中してしまうこととなる――。
最初のコメントを投稿しよう!