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富士川に遅れること一時間あまり――。
華音は高野和久と共に、芹沢邸から市立公会堂へと移動してきた。
市立公会堂の大ホールは、客席三階構造で収容人数は1800人、演劇からアーティストのライブ、講演など、多目的な催事のために使用されている。
芹響の定期演奏会は、このホールで行われるのが通例となっていた。
「とりあえず、俺の楽屋に行こうか」
高野は、今夜の演奏会でピアノ協奏曲のソリストを務めることになっているため、専用の楽屋が用意されている。
自分の自由になる場所に身を置いたほうが、修羅場の様子をうかがうには都合がいい、というのが高野の言い分だった。
「祥ちゃん……どこにいるのかな?」
「さあねえ、忙しく動き回ってるんじゃないのかな。公会堂の中のどこかにはいると思うけど」
華音は富士川の言いつけを守らずにここまで来てしまったのである。邪魔になるようなことだけは、避けなければならない。
二人は正面入り口ではなく、建物の外を回り込んで、楽屋入口のドアを目指した。
高野にあてがわれた楽屋は、楽屋棟三階奥の個室だ。
三階には他に、指揮者の楽屋もある。高野の楽屋は、ちょうどその向かい側に位置する部屋だった。
高野はいまだ芹沢邸に駆けつけたとき同様、上下パジャマに上着を羽織ったままだ。
二人は辺りの様子をうかがうようにして、楽屋棟の階段を上がっていく。
幸いにも、高野の服装をとがめるような人影は見当たらない。
華音は安堵した。
ようやく二人は、高野専用の個室である楽屋の中へと入り込んだ。
楽団員たちの使用する二階の大楽屋と違い、こぢんまりとしている。二人でいるには充分な広さだ。
テーブルの上には、手つかずの弁当がお茶のポットと一緒にして置かれている。
「なんか、予想外に静まり返ってるなあ。どうする? ステージでも覗いてくるか……いや、やっぱり止めておいたほうが良さそうかな」
「どうして?」
「んー、まだ結論が出ていないってことなんじゃないのかなあ、と思って」
華音の心臓が、ひときわ高鳴った。
そう――。
この建物のどこかでは、現在進行形で大騒動となっているに違いないのである。
富士川青年が一人対応に苦慮している姿が、華音の目にハッキリと浮かぶ。
しかし、華音はなんの役にも立たない。ただひたすら、見守ることしかできないのである。
高野はパジャマ姿のまま、部屋の隅に置かれている長椅子に横になった。結局、様子を見に行く気をなくしてしまったらしい。
華音はどうするべきか、一人迷っていた。
そのときである。
ドアを二度、ノックする音がした。
部屋の主である高野が返事をすると、黒い礼服姿の若い男が、客演用の楽屋へと入ってきた。
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