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「ああ、良かった。来てくださってたんですね」
姿を表したのは、ヴァイオリンの美濃部達朗だった。
美濃部はステージマネージャー的雑用を任されている男で、各団員への連絡もこの青年の仕事だ。独特の論理的な喋り口調が特徴である。
美濃部は、高野のそばに華音の姿を捉えると、一瞬驚いたような表情を見せた。しかしすぐに素に戻り、淡々とタイムテーブルの確認を続ける。
「今夜の演奏会、予定通り開演するそうですよ、高野先生」
「はあ? と、いうことは、富士川ちゃんがやる気になったってことか。誰か知らんけど、よく説得したもんだなあ。オヤジの言うこと以外、耳貸すことなんかないのかと思ってたよ、俺は」
やる気があるのかないのかハッキリしない高野を横目に、美濃部は構わず説明を続ける。
「相当揉めてたみたいですけどね。芹沢先生の『指揮者生活四十周年記念』という特別の舞台ですから、代役なんて立てる意味がないと、富士川さんは頑なに拒んでましたし。ただ、今夜はコンチェルトですから、高野先生のピアノを目当てに来るお客様がたくさんいらっしゃるので、簡単にキャンセルできないというのが、首席陣の最終判断のようです」
「そりゃあね、ただでさえオヤジの急死に取り乱しまくってんのにさ、指揮経験ゼロでオヤジの『代役』で振れったって、そんな簡単にウンとは――言えないよなあ」
のそりと身を起こすと、高野は大きく伸びをし、のんびりと頭を掻き始めた。
富士川とは対照的なそのあまりの緊張感の無さに、美濃部は呆れたように大きくため息をついた。
「それより高野先生、問題は先生ですよ?」
そう言って、美濃部は自分の人差し指を高野の眼前に突きつけた。
「は? 美濃部ちゃん、君ねえ、これでも一応、客演のピアニストなんだから。問題児扱いは、どうかと思うぞ?」
「私は先生のこと、信じてますからね? まかり間違っても、あんなことやこんなことは、今夜だけは! しないでください。いいですね!」
「そんなこと言われてもさあ、俺、演奏中のこと、あんまり覚えてないんだよねえ。まあ、今日はまだ飲んでないし」
この高野というピアニストは、アガリ防止の薬と称して、演奏前に必ずお酒を飲むのが常だった。その度合いによって『微酔奏法』や『泥酔奏法』なるものまで編み出す始末だ。
酔っている状態では、自分がどんな演奏をしているのかがよく分からない、と高野は言う。しかし、その演奏は聴衆の度肝を抜くほど素晴らしく、神懸かった音楽を生み出してみせるのである。
だからこそ芹沢英輔も、高野が多少の酒を飲んでステージに上がることを黙認していたわけだが――。
今夜の指揮者は、『代役』だ。
「とにかく! 今日の富士川さんは、いつも以上にナーバスになってますから、それだけは覚えておいてくださいね。今日はお酒を控えて、しらふで! いいですね?」
立場的にも年齢的にも美濃部のほうがずっと下のはずなのだが、いつも高野は言い込められてしまっている。
華音は、目の前で繰り広げられる二人の男の言い合いをひたすら傍観していたが、ようやく重い口を開いて、美濃部青年におずおずと尋ねた。
「祥ちゃんが……指揮をするってことなの?」
華音の問いに、美濃部青年は抑揚のない声で淡々と答えた。
「ええ。まあ、この状況じゃ富士川さんが振るのが妥当でしょうかね」
「そんなのあんまりだよ。何もこんなときじゃなくたって」
高野が言っていた『胸騒ぎ』とは、まさにこれだったのではないか、と華音はようやく気づいた。
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