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富士川にとって、芹沢英輔という存在は絶対的だったのだ。崇拝し、そして敬愛を寄せていた。
突然の死に途惑っているのは、身内である華音以上であるに違いなかった。
それなのに――。
「確かに、華音さんの言うとおりなんですけどね。なんせ藤堂女史が、頑として譲らなくて」
美濃部の説明に、高野が半ば呆れ顔で過剰な反応をしてみせた。
「まーた、あかり君の仕業かあ。富士川ちゃん、ただでさえ楽ちゃんのことで血ぃのぼってんのにさあ」
藤堂あかりとは、去年音大を卒業したばかりの、才能も美貌も兼ね備えた女性団員である。
ヴァイオリンセクションの副首席も務める彼女の、音楽に懸ける情熱は半端ではない。そのことは、楽団関係者の周知の事実である。
「というか、その『ガクチャン』って何ですか?」
美濃部は何やら聞き慣れぬ単語に合点がいかないのか、微妙な曖昧な表情をして、高野の顔を見つめている。
「あれ、美濃部ちゃんは知らなかったっけ? んんんっ、オヤジの秘蔵っ子、かな。ウィーンで修業中の二番弟子」
美濃部は目を丸くした。
「二番、なんていたんですか? 何か隠し子みたいですねえ」
美濃部もまた、華音と同じような反応をしている。比較的新しい楽団員には、ほとんど二番弟子の存在は知られていないらしい。
「悪いヤツじゃないんだけどさ、まあ、なんて言うか、富士川ちゃんとはどうも合わないらしくて、さっきも電話でやりあったばかりなんだよねえ」
華音はその説明を聞き、先ほど自宅で目の当たりにした一連の出来事を思い出した。
「あんなに怒った祥ちゃん、初めて見たもん。ねえ高野先生、その人って、相当問題あるんじゃないの?」
「いや? 才能はピカイチだし、爽やかな好青年って感じだよ。まあ、カゲではいろいろ言われてるけどさ。あの二人、何て呼ばれてるか知ってる?」
華音と美濃部は顔を見合わせた。そして一緒に首を横に振ってみせる。
「『鬼の一番弟子』と『悪魔の二番弟子』。傑作だよねえホント」
「悪魔……なんですか?」
「例えだから、例え。魂売らなきゃ大丈夫――なんてね」
あくまで軽く笑ってみせる高野を前にして。
華音と美濃部は唖然としたまま、瞬きを繰り返すばかりだった。
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