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その夜の演奏会は、楽団の歴史に残るものとなった。
芹沢英輔の『指揮者生活四十周年記念』という大舞台で、指揮台に上ったのは、指揮経験ゼロの若き青年であった。
観客たちは詳細を知らされぬまま、その違和感に途惑う表情を見せながらも、若き青年の作り出す音楽に耳を傾ける。
演目はベートーベン作曲、ピアノ協奏曲第5番『皇帝』。
ベートーベンが作曲した五つのピアノ協奏曲の中で、最も有名な楽曲である。
ピアノ独奏を務める高野和久にとって、ベートーベンは最も得意とするレパートリーだった。
それが幸か不幸か、普通に演奏すれば十分はかかる第三楽章を。
高野はなんと、七分足らずで弾ききったのだ。
演奏が終わったあとの公会堂の大ホール内は、異様な雰囲気に包まれていた。
観客たちのどよめきは、客席で演奏を聞いていた華音にも、じわじわ刺さってきた。
明らかに名演奏とは程遠い『迷』演奏、はたまた『珍』演奏とこき下ろされる始末だ。
奇妙な演奏が聴けたと喜ぶものもいれば、金返せモノだと愚痴る好事家たち。
好奇と義理の入り混じった拍手――。
華音はとっさに両手で耳をふさいだ。そして、大方観客がホールを出ていくまで、そのままじっと身を硬くして座席についていた。
華音自身、もう何度も芹響の演奏会に足を運んでいるが、このような観客の反応は初めてだった。
祖父が指揮をしているときには、決してありえなかった空気だ。
代役を務めた富士川の気持ちを考えると、華音はもう胸が張り裂けてしまいそうだった。
華音はホール客席をあとにし、富士川のいる楽屋へと足を向けた。
ホールのロビーから楽屋へ通じるドアには、『関係者以外立ち入り禁止』というプレートが下がっている。華音はためらいもなくその中へと足を踏み入れた。
階段を上がっていくと、二階の楽屋廊下は楽団員や公会堂のスタッフであふれかえっていた。楽団員の家族や知人友人らしき人物が、手に花束を抱えて、それぞれ目的の人物と歓談している。
華音はそのまま三階の楽屋へ、階段をさらに上がっていった。
楽団員たちのいる二階楽屋の雑然とした雰囲気とは一転して、三階楽屋の廊下は閑散としている。
指揮者用の楽屋の前までやってきて、華音はドアをノックしかけ、やがてゆっくりとその手を下ろした。
――かける言葉なんて、見つからない。
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