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華音は悩んだ挙句、先に向かい側の高野の楽屋へと入った。
高野はステージ衣装のまま、ソファに寝転がっていた。蝶ネクタイだけはすでに外され、テーブルの上に投げ出してある。おそらく今日はこのまま帰るのだろう。
「高野先生、祥ちゃん……どうしてる?」
「何だか富士川ちゃん、アヤシイ雰囲気なんだよねえ」
華音はため息をついた。大方の予想はついている。
「そりゃ、あんな演奏じゃ……高野先生、いったいどうなったら、あんなことになっちゃうの?」
「俺に聞かれてもなぁ。正直、ピアニスト生命絶たれるかと思ったよ。いやあ、指の骨折れちゃいそうだった、マジで」
緊張感のない、相変わらず能天気な物言いだ。
高野は自分の手をじっと眺め、五本の指を順番に何度も動かしていく。
「一楽章と二楽章が、何だかエラくもたついてたからさぁ、まあ、富士川ちゃんパニくってて流れにノれてないのは分かってたから、親切心のつもりで三楽章を勢いつけて入ったら、今度はオケが加速しちゃってさあ。あとはノン君も聴いてたとおりの結果になっちゃった、と」
あのスピードについてった俺もスゴいよね、と高野は自画自賛ならぬ自演自賛している。
確かに、ある意味凄かったと言えるだろう。
『東洋のフランツ・リスト』と称されるだけあって、そのパワーとテクニックは、普段の自堕落な高野の姿からは想像もつかないほど、素晴らしいものだった。
ベートーベンを得意としているとはいえ、ミスタッチもなく、いたずらに速まったテンポでも完璧に弾きこなしてみせたのだから。
そのときである。
廊下から、若い女性のヒステリックな叫び声が聞こえてきた。
声の主は藤堂あかりである。
富士川のいる楽屋の前で、何かが起こっているらしい。
「私、祥ちゃんの様子、見てくる」
華音は不安に駆られ、高野の楽屋から廊下へと飛び出した。
あかりが、指揮者用の控室のドアを必死に叩いている。
「富士川さん、開けてください、富士川さん!」
しかし、中から返事はないようだ。ドアノブを回しても、金属が擦れる不快な音を立てるばかりだ。内側から鍵をかけてしまっているらしい。
そのとき、あかりがこちらを振り向いた。
華音の姿をとらえ、あかりは一瞬、困惑したような表情を見せる。
「謝りませんから、私」
あかりの瞳には力がこもっている。
「私も富士川さんも、間違ったことは何もしていませんから」
「別に私は……何も」
「藤堂」
ドアの内側から、富士川の声がした。
「俺なら大丈夫だ。疲れているんだ。君は美濃部君と一緒に、後片付けをしてくれ」
あかりはドアに張りついた。富士川の様子を聞き取ろうと必死に耳を押しつけ、内側に向かって問いかける。
「本当に、大丈夫なんですか」
「大丈夫だ。でも今は、一人にしてくれないか」
そこで富士川の声はいったん途切れた。そして鍵が外される音がして、ゆっくりと控室のドアが開かれる。
現れた富士川の姿を見て、華音は思わず息を呑んだ。あかりも目を見開き、言葉を失っている。
――大丈夫じゃない。
「君を、責めたりしてないから」
それがあかりに対する、富士川の精一杯の言葉だった。
「華音ちゃん……送っていくよ。中に、入って」
あかりの綺麗な顔が、わずかに歪んだ。
一瞬、目と目が合う。
しかしあかりはすぐに素に戻り、あとのことは任せてください、と言った。
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