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00.プロローグ
――十四年前。
在りし日の思い出。
すべてが琥珀色に染まっている。
芹沢邸は、閑静な住宅街の広大な敷地に建てられた、大きな大きな洋館である。噴水を有する英国式の前庭と、手入れの行き届いた芝生と花々が美しい中庭が、芹沢邸の自慢だ。
屋敷の主は、還暦をもうすぐ迎える初老の紳士で、日本屈指のオーケストラ指揮者として名を馳せている。この広大な邸宅に、妻と幼い孫娘と、三人で暮らしている。
いや、もう一人――この春から、芹沢氏の一番弟子となった若者が、芹沢邸で居候を始めることとなった。
弟子の名は、富士川祥という。つい先日、高校の音楽科へと進学したばかりの、生真面目な風貌の少年だ。
芹沢氏がこの少年を『居候』として弟子入りさせたのには、大きな理由があった。
居候の初日、芹沢氏は富士川少年を自分の書斎へと呼び寄せた。
そこへ間もなく、ピンクのワンピースを着せられた小さな女の子が、執事に手を引かれるようにして、少年の前へと連れてこられた。
二歳になったばかりという、芹沢氏の孫娘である。
その小さな女の子は、祖父である芹沢氏のそばには近寄ろうともせず、ただじっと見知らぬ少年の顔を見つめている。
「初めまして」
少年の挨拶に少女はまるで反応しない。人見知りをして恥ずかしがっている様子でもない。
首を傾げた少年に、老指揮者はため息交じりに説明をした。
「この子はほとんど喋らないのだ。両親を亡くして、情操教育が行き届いておらん。だから、君にこの子の世話を頼みたいのだ」
「世話……ですか?」
「私どもではもう、どうにもならんのでな」
芹沢夫人は一年前、最愛の一人息子を事故で亡くしたショックから精神を病み、現在は自室としているサロンにほとんど引きこもっている。
血の繋がった孫とはいえ、幼い子供の面倒を見ることが老いた芹沢夫妻には困難であり、また執事や家政婦だけでは、精神面の養育に少なからず不安がある。そのため、芹沢英輔は幼い孫娘の面倒を見ることのできる、住み込み可能な弟子を捜していた。
つまり。
天涯孤独という身の上を持つ富士川少年は、芹沢英輔の求めていた条件にうまく合致したのである。
富士川少年は、いまだ警戒の眼差しを向けている小さな孫娘の下へゆっくりとひざまずき、そっと頭をなでた。
「今日からは俺がずっとそばにいるから、どうぞよろしくね」
ふわりと柔らかな空気が、幼い少女を優しく包み込む。
すると。
慣れない雰囲気に途惑ったのか、少女は突然、ぐずるようにして泣き出した。
かくして、音楽を学びながら幼い少女の面倒を見るという、富士川少年の未知なる居候生活がその日から始まった。
朝起こしに行き、着替えさせて、一緒に朝御飯を食べる。
学校へ行っている間は、代わりに通いの家政婦に世話をしてもらう。
帰ったら遊び相手を務め、富士川の自主レッスンの時間には、少女は同じ部屋の隅で、絵本を読んだりお絵描きをしたりして過ごす。
晩御飯を一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、午後八時に寝かしつけ――。
ひと月過ぎた頃には、少女はすっかりと富士川少年に懐いていた。
学校に出かけるときには、少年の制服のズボンにすがりついて泣きじゃくることもあり、祖父である芹沢氏や執事たちをしばしば驚かせた。
そう。
幼い少女にとって、富士川少年の存在が「世界のすべて」だった。
やがて一番弟子の少年と小さな孫娘は、十四年という長いときをともに経ていくうちに、いつしか――本当の家族のようになっていったのである。
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