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富士川は華音を楽屋の中に招き入れると、再び鍵をかけた。
完全に二人きりとなり、華音はようやく落ち着きを取り戻した。公会堂の楽屋という公共の場所であるが、流れる空気は芹沢邸にいるときと変わらない。
「言いつけを守らなくてごめんなさい。どうしても祥ちゃんのことが心配で……」
「いや……俺もこんなことになるなんて、思ってもみなかったし」
富士川はそれっきり口を閉ざし、演奏会で使った楽譜の整理を始めた。
華音は持っていたバッグをテーブルの上に置くと、部屋の隅に投げつけられるようにして置かれていた大きな花束を拾い上げた。
ふんわりと甘い香りが鼻をつく。
演奏が終わったあとに、指揮者が通例、舞台上でもらうための花束だ。
「あの……よかったの? 藤堂さんのこと」
「よかったって、何が?」
「だって藤堂さん、祥ちゃんのこと心配してたみたいだから」
華音は色々な意味を込めて、そう言った。しかし今の富士川には、その意味まで読み取る余裕はないようだ。
藤堂あかりは富士川に対して特別な感情を抱いている――それは華音も薄々感づいている。
一部団員の間では、二人は密かに交際しているのではないか、という噂が流れているらしい。
しかし、富士川は芹沢交響楽団のコンサートマスターという立場上、特定の団員との私情を交えた付き合いは敬遠している。そのため、二人に交際の事実はない。あくまで噂だ。
ただ、彼の心の内までは、華音には分からない。はたして富士川が、藤堂あかりのことをどう思っているのか――。
「藤堂は責任を感じてしまっているんだ。そして彼女を追い詰めてしまったのは他でもない、俺の力量不足……身の程知らずにもほどがある」
いつも以上に淡々としている富士川喋りが、自虐の色をいっそう強めている。
何と言ったらいいのか。かける言葉が見つからない。
仕方のないことだったのだ。
不可抗力――。誰が代役を務めたとしても、同じ結果になってしまったはずだ。
それでも富士川には、一番弟子の気概があったに違いない。
「団員たち、俺のこと何か言ってなかった?」
「別に、何も言ってないと思うけど……」
そうか、と富士川は軽く頷いた。おそらく信じてはいまい。
やはり、気にしているのだろう。しかし華音の前では、努めて冷静さを保とうとしている。
「さっきの演奏中に、あいつの嘲笑う顔が――頭から離れなかった」
あいつが誰のことを指しているのか、華音にはすぐに分かった。富士川が先刻電話越しに怒鳴りつけていた、祖父の『二番弟子』のことに違いない。
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