01.有名大指揮者の落日

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01.有名大指揮者の落日

 華音がベッドの上で目を開けると、そこは闇だった。  漠然とした怖さと、例えようもないほどの不安が、容赦なく襲いかかってくる。  人の気配はない。祖父も祖母も、執事も通いの家政婦たちも――誰もいない。  真っ暗な部屋の中に、小さな華音は一人ぼっちだった。 「ショウたん……」  小さな自分にできるのは、泣くことだけだった。  華音は、闇に包まれた自分の部屋のベッドの上で、大きな声を上げて泣き続け、とにかく必死に訴える。  怖い。  寒い。  早く、早く、早く――。  程なくして、華音の求めていた人物が目の前に現れた。  部屋にやってきた少年が灯りのスイッチを押すと、闇は光へと生まれ変わる。 「どうした? 怖い夢でも見たの?」  少年は掛け布団を引き剥がし、ベッドの上の幼い華音を抱き起こす。  華音は背中に回した小さな手で、少年のシャツをきつく握り締めた。 「ショウたん、いなくなったらヤダ……」 「どこへも行かないよ。華音ちゃんを放っておいて、いなくなるわけがないじゃないか?」 「どこにもいっちゃイヤ」  華音は少年に抱きついたまま、離れない。  少年は観念したように、華音を抱き締め背中をさすってやりながら、その耳元でゆっくりと優しいため息をついた。 「大丈夫。ずっと一緒に、いるからね――」 「いつまで寝てるの、華音ちゃん」  長い長い夢から目覚めると、一人の男がベッドの端に腰かけて、華音の顔を覗き込んでいた。  涼やかな面持ちと、知性をかもし出す眼鏡が印象的な青年だ。およそ肉体労働とは無縁の、痩せ型の体型の持ち主である。  華音は自分を起こしにきた男を確認すると、掛け布団の中で大きく伸びをした。 「……祥ちゃん、おはよー」 「もう高校生なんだから、一人で起きられるようにしないとね。なんなら、着替えもお手伝いいたしましょうか、お姫様?」  祥、と呼ばれた青年は、おどけたように言った。 「やだ、子供じゃないんだから……恥ずかしい」 「じゃあ、早く着替えて食堂へおいで。芹沢先生はもう席に着いて待っていらっしゃるよ」 「うそ、いつもより早くない?」  華音は途端に焦り、掛け布団を蹴散らすようにして、ベッドの外へと這い出た。厳格な祖父の顔が、脳裏をよぎっていく。  そんな華音とは対照的に、青年は緩やかに表情を和らげて説明をしてみせた。 「今日は、特別な日だからね――」
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