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食堂と呼ばれる部屋の大きな食卓の上座には、すでに祖父の英輔が威厳を漂わせて着席していた。
「おはようございます。遅くなりました」
「乾(いぬい)君、朝食の時刻の変更は伝えていなかったのか?」
祖父は遅れてきた孫娘にではなく、そばに控えていた執事に強く尋ねた。
直接華音に話しかけてくることは、ほとんどない。目の前にいても、こうやって執事に尋ねるのが、祖父の常だった。
重苦しい雰囲気の中、上手く間に入ったのは富士川だった。
「遅れたのは俺のせいです、先生。すみませんでした」
華音をかばいつつ、そして師の機嫌も損ねることがないように、器用に言葉を紡いでいく。
「芹沢先生、華音ちゃんも年頃の女の子ですから。身支度に時間がかかるのは大目にみてやってください」
一番弟子の答えに何か思うところがあったのだろう。祖父はそれ以上、華音を責めることはなかった。
静かにそして淡々と、朝食の時間は流れていく。
「今日の演奏会が終わったら、少しゆっくりしようかと思っている。祥、お前を私の後継者として、もう少し鍛えてやらなくてはならんからな」
その主人の言葉を聞き、執事の乾は富士川に紅茶を給仕しながら、嬉しそうに会話に加わってくる。
「それは頼もしいですね。富士川様はこれからの芹響を背負っていかれる方ですから」
「そんな後継者だなんて、俺なんかまだまだ……」
富士川はどこまでも謙虚な姿勢を崩さない。それでも一番弟子という立場として、己の行く末はもちろん理解しているはずだ。
いずれは、芹沢英輔の後継者として音楽監督となり、楽団を率いていくことになるのだろう――それは華音も信じていた。
英輔は、富士川の隣に着席している孫の顔に、一瞬だけ目をやった。
「華音も、十六になったことだしな」
続く英輔の言葉を、富士川は慌てて遮った。
「いや、あの、そんな、華音ちゃんはまだ高校生ですし」
そう言って、富士川は砂糖もミルクも入っていない紅茶を、スプーンで何度も何度もかき混ぜる。
芹沢老人は、途端にしどろもどろになる弟子の変わりようを、面白げに眺めている。
「まあ、すべては今夜の演奏会が終わってからの話だ」
師の言葉に、富士川は華音の横で、安堵したように大きなため息をついた。
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