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朝食を終えると、華音は学校へ行くための支度を整え、玄関へと向かった。
華音を見送るためにと、珍しく富士川が玄関のところで待っていた。
華音が靴を履く脇で、富士川は呟くような声を漏らしている。
「……本気なのかな、先生」
「ねえねえ祥ちゃん、本気って何?」
今朝の食堂での、師弟の意味深なやり取りが、華音は気になっていた。華音はその疑問を、素直に富士川へぶつけてみる。
しかし、富士川は軽く息をつき、華音の疑問をあっさり一蹴した。
「子供には関係ないことなの。さあ、ゆっくりしてたら学校に遅れるよ」
「もう、こういうときだけ子供扱いして!」
華音が拗ねて頬を膨らませると、富士川の表情が和らいだ。
「あ、そうだ。祥ちゃん」
「どうしたの?」
華音はおもむろに富士川青年の胸に抱きついた。
幼い頃からのくせが今も抜けないでいる。
「祥ちゃん、頑張ってね。夜、ちゃんと聴きにいくから」
「はいはい、ありがとう」
こんな他愛もない日常が――。
何の前触れもなく、突然崩壊することとなる。
その日の昼休み、華音は学校の事務室から呼び出しを受けた。自宅からの緊急の電話を取り次がれたのである。
華音は腑に落ちなかった。
昼間に家から電話がかかってくることなど、まずありえないことだった。
――何だろう?
虫の知らせといったような漠然とした何かを、華音は感じ取った。
急いで事務室へ向かうと、無愛想な中年の事務職員が、華音に受話器を差し出してくる。
華音がそれを受け取り、耳に当てるのを確認して、事務職員は通話内容に立ち入らないよう、すぐに電話のそばを離れていった。
華音は気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸した。
耳に当てている受話器から、丁寧な口調の男の柔らかい声が流れてくる。
『お忙しいところ申し訳ございません、華音様――』
電話をかけてきた相手は、芹沢家の執事・乾だった。
乾は淡々と続ける。
『先ほど、公会堂におられる富士川様からお電話がございまして』
今日は芹沢英輔の指揮者生活四十周年を記念する、特別演奏会が催されることになっている。
確かに執事の言うとおり、富士川は今夜の演奏会準備のため、市立公会堂へと出かけているはずだ。
華音はそのまま、執事の言葉に耳を傾けた。
『最終リハーサルの途中で、旦那様が突然倒れられたとのことです。旦那様は病院嫌いでいらっしゃいますから、これからこちらへ戻っていらっしゃるとのことです。富士川様から、華音様も早退していらっしゃるようにと――』
心臓の鼓動が、物凄い勢いで脳天まで響いている。
もう、執事の声は聞こえなくなっていた。
頭の中が真っ白になり、何も考えることができない。
華音は担任の教諭に事情を話し、急いで荷物をまとめると、ひたすら自宅へ向かって走り出した。
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