01.有名大指揮者の落日

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 ミューズの像が載った噴水の脇を通り、玄関先へ到着すると、そこに芹沢家の執事がいつもの冷静さを逸した不安げな表情で、華音を待ち受け立っていた。 「ああ、華音様! さあ、早く二階の方へ」  軽く頷き玄関から中へと入ると、華音は真っ直ぐに祖父の寝室へと向かった。呼吸を整える余裕もない。  階段を駆け上がり、左に進み、突き当たった角を右に折れた先が祖父の寝室である。延々と続く長い廊下を、これほど恨めしく思ったことはない。  ようやく最後の角を曲がると、一番弟子・富士川祥が、部屋の前で憔悴した表情でたたずんでいた。 「祥ちゃん!」 「ああ、早かったね。そんなに息を切らして。さ 芹沢邸は、広大な敷地に建てられた洋館風の大邸宅である。  華音はようやく自宅へ辿り着き、重い鉄製の門扉を力任せに押し開くと、玄関まで長く続く石畳を全速力で駆け抜けた。  あ、こっちへおいで」  華音は富士川に促されるまま、廊下の隅に置かれた長椅子に腰かける。富士川も、その右隣に並ぶようにして座った。  富士川は思いつめた表情で、じっと芹沢英輔の寝室のドアを凝視し、眼鏡の奥の瞳を心なしか潤ませている。端整ながらも怜悧な印象を与える顔立ちは、さらに険しさを増し、いっそう悲壮感を漂わせている。 「祥ちゃん、いったい、どうなってるの?」  華音が呼吸を整えつつやっとの思いで尋ねると、富士川は虚ろな表情のまま、堰を切ったように説明をし始めた。 「華音ちゃん、すまない。俺がそばについていながら……リハの休憩中に、芹沢先生は一旦楽屋へ戻られたんだけど、休憩時間が過ぎていつまで経ってもステージへ姿を見せないものだから、様子を見に行ったらすでにぐったりとしていて……発見が遅れてしまった」  富士川は片手で額を押さえ、己の行動を悔やむように、空に向かって深いため息をつく。 「そんな……祥ちゃんのせいじゃないよ。祥ちゃんのせいなんかじゃないから」  しかし、どんな言葉をかけても、今の富士川には何の慰めにもならない。むしろそれが、どんどん彼を追い詰めるだけの結果となってしまう。  富士川の様子から、祖父の容態は決して楽観できる状態にはないのだと、華音は悟った。  いったい、どうしたらいいのだろう――華音にはもはやなす術もなく、憔悴しきった富士川の横で、ただじっと長椅子に座り込んでいるしかなかった。  そのときである。
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